石神井の三宝寺には山門の他に通用門があったのですが、これは勝海舟邸の門だったのだそうです。
なぜ赤坂の海舟邸にあったこの門が練馬の三宝寺にあるのかを辿ってみたら、これにも湧水がちょっぴり関係していました(^o^)。
湧水池のある所は風光明媚だったので、鉄道が引かれると各地で観光庭園開発が盛んになったそうで、大きな湧水池のあった石神井には第一・第二豊田園、練馬には豊島園、旭町には兎月園という庭園が作られ、海舟邸の門はこの兎月園に移築されていたのだそうです。
兎月園は、当初華族や富裕層向けの会員制施設として造られたそうですから、そちらの関係で勝海舟邸の門が兎月園に移築されていたということでしょうか。その後兎月園には、数寄屋造りの茶店や料亭、ボート場やテニスコートや映画館などが作られて総合娯楽施設になり、料亭は政財界の大物が多く利用する場所として賑わっていたのだそうです。
左下が兎月園の池・右下は豊島園の池。
当時の豊田園の一部は、現在は石神井公園の中に「記念庭園」として残っており、
記念庭園
豊島園は「としまえん遊園地」になって残っていますが、兎月園は第二次世界大戦が激化すると利用者が減少して経営に行き詰まり、1943年に閉園して明電舎に売られたのだそうで、現在は池も含めて跡形もなく、光が丘公園付近から兎月園に向かっていた道に「兎月園通り」という名前が残っているだけのようで明電舎もありませんから、明電舎がこの土地を手放した時に勝海舟邸の門は旭町から石神井の三宝寺に移築されたということのようです。
ところで『日本書紀』には景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(300年間の天皇)に仕え、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖となったという武内宿禰という人が出てきますよね。
歴史学者さんたちは何の疑いも持たずにそれを信じているようですが、作家の池澤夏樹氏もワカタケルとは雄略天皇のことで雄略天皇は実在の天皇であり、300年も生きていた武内宿禰という人もいたと信じているようで、今連載中の『ワカタケル』にも時々この武内宿禰がカミサマとして出てきて、ワカタケル(雄略天皇)にアドバイスしたり要求を出したりしているのですが、「300年も生きていた人なんているはずがないんじゃないの?」と思う方が普通だとは思いませんか(^_-)?
今日は「ワカタケルの命令で雷を捕らえた」というさらに荒唐無稽なオハナシになっていましたが、雷は静電気が雲の中に大量にたまることによって起きる自然現象ですから、捕まえられるはずがないと思うのですけれどね~。
この小説は本当に「日本という国が形成される過程を描く」ことを意図したものなのでしょうか?それとも『記紀』が記したウソの過程を追認する(させる)ためのものなのでしょうか?
古代の作り話のリメイクであるのなら、『記紀』にはそう書いてあるようですから、ワカタケルが雄略天皇でも、雷を捕まえて竹の輿に閉じ込めて連れてきても、私が文句を言う筋合いではないのですが (^_-)。