北区の旧滝野川村付近には滝が多く、夏にはこの辺りの滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていたそうですが、ここに多くの滝があったのは、ここが等々力渓谷と同じ武蔵野台地の末端だったからでしょう。ここも江戸時代には「石神井渓谷」「滝野川渓谷」「音無渓谷」などとよばれる渓谷だったのです。
武蔵野台地の末端から滝となって流れ落ちていた宙水が渓谷を刻んでいたのでしょう。けれどご多分に漏れず、宙水が枯渇してしまった今はこれらの滝もなくなってしまったようです。そしてやはりご多分に漏れず、この台地の端にも貝塚や古墳や郡衙跡など各時代の遺跡がたくさんあるのです。
西ヶ原貝塚
豊島郡衙跡
等々力渓谷に露出している地層は↓のようですが、
先日杉並郷土歴史館でいただいてきた資料の中にあった杉並区の地層は↓のようになっていました。
↑の図で武蔵野面と台地の下の川の流れる立川面とで立川ローム層がずれているのは、武蔵野面の立川ローム層は当時の陸地の上に堆積したもので、立川面の立川ローム層は台地下の当時の海に堆積したものだからでしょう。
立川ローム層は関東ロームの中でもっとも新しく堆積した層で、約1万年前~3万年前に堆積したと考えられているそうですから、旧石器時代から縄文時代には台地の下の現在川の流れている平地は海だったのです。
思い込みの激しい人や頭の固い人には理解してもらえないようですが、「古代の地形から『記紀』の謎を解く」に書いた地形の変化は論理的な推理と現場検証によるもので、「でたらめ」でも「奇を衒った説」でもないのです(^o^)。
杉並区の地層と世田谷区の等々力渓谷に露出している地層は少し違うようですが、これは扇状地の中ほど(標高4~50m)にある杉並区と扇状地の末端の等々力(標高20m以下)では陸地化した時期が違うからなのだろうと思います。
武蔵野台地
湧水の湧き出る高さも杉並区では標高4~50mですが、大田区や目黒区では3~40mの高さにあり、末端の等々力渓谷の滝は20mくらいの高さになっています。