武蔵野台地は大規模な水稲耕作には不適なようですが、立派な寺院が多く見受けられる処をみると、何を栽培しても売れる100万都市・江戸の近郊農業地帯として開発発展したのでしょうか。もっと昔から海退後の入り江を干拓地にして新田開発をした人たちが武蔵野台地に住んでいたのでしょうか。それとも青梅からの巨大な扇状地が荒川と多摩川に削られて残った土地で火山灰土にも覆われて伏流水や宙水に恵まれて灌漑に優れていたせいでしょうか。
2018/12/26(水) 午後 10:54 [ kojita ]
「古代の地形から『記紀』の謎を解く」に地図を載せてありますが、古代には現在の関東平野は「古東京湾」の海だったのです。現在は海のない埼玉・群馬・栃木にたくさんの貝塚があるのは、そこに人が住み始めた頃そこが海だったからであり、内陸からクジラや巨大サメなどの海の生物の化石が出土するのは、そのクジラやサメが生きていた時にはそこが深い海だったからなのです。
埼玉県深谷市から出土した巨大サメ「カルカロドン・メガロドン」の顎の復元模型
埼玉県小鹿野町から出土したパレオパラドキシアの復元骨格
古代の海が時間の経過に連れて海退や隆起によって陸地化し、さらに川の付け替えや干拓や開発などの人の手も加わってすっかり様相が変わってしまった今は、武蔵野台地のそこここから湧き出していた湧水は枯れ、そこから流れ出していた無数の小川は下水道として暗渠化されて見えなくなってしまっていますから、「乾いた武蔵野台地で大規模な水稲耕作などできたはずがない」と思ってしまいますが、関東大震災の頃までは、今とは全く違っていたようです。
また、台地の下が海だった弥生時代から稲作は始まっていたのですから、当時の稲作は台地の上で行われていたはずですよね。実際に武蔵野台地上の雨沼のあった天沼や鴨池のある高原院の辺りなどの湧水があった所は江戸時代には水田だったようですし、江戸時代の地図を見ると、朱引きの外はもちろんのこと、朱引き内も広大な「百姓地」となっています。
台地の上では今でも大きな屋敷林を見かけることがありますが、中世に海の跡の葦原を開拓させて広大な土地の領主となった人たちは支配者層であって、当然低湿地ではなく高燥で快適な台地の上に住んでいたはずですから、それらは江戸時代には地主や名主などになっていた開拓領主の屋敷や屋敷跡でしょう。
阿佐ヶ谷の「けやき屋敷」
学者さんたちは青梅からの巨大な扇状地は多摩川が作ったものだとしているようですが、この扇状地は海の跡で、川が作ったものではないと私は思います。
武蔵野台地
多摩丘陵に沿うように流れているのが多摩川ですが、この多摩川の流れが↑のような広大な扇状地を作れたはずがないではありませんか。
多摩川は、古代の海が後退した後、海までの水路として残ったものなのです。多摩川の上流の昭島市では、クジラの化石というここが海であったことを証明する物証も出てきていますしね\(^o^)/。