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Channel: 歴史探訪
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2018.12.11 コメントへのお返事
 
わたくしも「対馬海流の渡航と船の形」や「銅鐸」については長いこと調査いたしました。
遠い過去のことを断定はできませんが、現在は【銅鐸・銅鏡を測量用器械にしていた】等の結論に落ち着いております。
――・――・――・――・――・――・――・――・――
 
とのコメントをいただきましたが、私は「対馬海流の渡航と船の形」についてはよく分かりません。
 
けれど地形や海の状況は、今と縄文時代の海進期や氷河期の海退期とでは全く違うのですし、海底の地形やその時の海の深さや幅が違えば海流も今とは違っていたはずですから、今の状況を調査しても弥生時代のことは分からないのではないでしょうか。
 
国立科学博物館の3万年前の航海再現実験も同じだと思うのですが、現在の地形や海で実験してみても当時の航海の再現にはならないのです。
 
案の定この実験は失敗して、
草の舟では黒潮を超えることはできないことが分かったわけですが、草の舟で越えることができなかったのは「現在の海と黒潮の流れ」であって、3万年前の海ではないのです。氷河期には海面は最大で今より140m低い所にあったそうですから、そのことを全く考えに入れていないこの実験で3万年前に越えられなかったことが実証されたわけではないのですよね。

今年科学博物館に行ったら↓のポスターが貼ってありました。
イメージ 1

さすがに「島があるかどうかわからないのにあてもなく漕ぎだした」という考えは改めたようですし、草の舟ではなく木の舟になるようですが(^o^)

また、司馬遼太郎氏の『日本人の原型を探る』によれば、「島原や五島では昭和の初年まで若い衆は小遣い稼ぎに手漕ぎの舟で朝鮮までタワシやタオルを売りに行っていた。そこまで力漕できるということが若い衆の名誉だった」そうですから、対馬海流を手漕ぎの舟で越えることはそれほど難しいことではなかったようです。渡来した弥生人の舟が帆船だったのかどうか私は知らないのですが、帆を持ち、何人もの漕ぎ手を配した船であれば対馬海流を超えるのは難しくはなかったかもしれません。
 
「銅鐸・銅鏡を測量用器械にしていた」ということも私は初めて聞きました。銅鐸の用途について私は何も知らないのですが、中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770~ 同221年)の越の貴族の墓から、日本の弥生時代の銅鐸に形が似た磁器の鐸が出土しているそうですから、銅鐸の原型を日本に持ち込んだのは紀元前5世紀に渡来した呉人の海人族か、その後に渡来した秦人の徐福の一行かもしれません。
 
けれど、もしも銅鐸と銅鏡が測量のためのものであったなら、銅鐸は銅鏡と一緒に出土するのではないかと思うのですが、そういう例はないようですし、測量機器だったのであれば、荒神谷遺跡や賀茂岩倉遺跡のように銅剣や銅矛などの武器と一緒にまとめて埋納される理由はなかっただろうと思うのですがどうでしょうか?
 
1980年に佐賀県鳥栖市安永田遺跡で、九州で初めて銅鐸の鋳型が発見され、1998年には佐賀県の吉野ケ里遺跡で銅鐸そのものも発見されていたそうです。吉野ヶ里では巴形銅器の鋳型も発見されているようですから、秦の技術者集団であった秦氏(徐福の一行)が銅製品を作って全国に卸していたのかもしれませんね。中国人が商売上手のようですから(^o^)
 

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