2018.11.18 縄文時代6
多摩丘陵の縄文遺跡から出土した「磨製石斧」ってどういうものなのだろう?と調べてみたら、現在までのところ大陸では発見されていないので、日本列島内で特殊進化したものと考えられているようです。
製作遺跡があまり発見されていないのは、磨製石斧は主に南九州で造られていたもので、その遺跡が鬼界カルデラ噴火で厚い火山灰の下に埋もれてしまったからでしょうか?相模原市と調布市の製作遺跡は、南九州から逃れてきて関東に定住した人たちの石斧製造所だったのかもしれませんね。
多摩ニュータウンでは磨製石斧の製作遺跡はまだ見つかっていないようですが、多摩ニュータウン№72遺跡では遺物1101点、局部磨製石斧1点、石斧素材12点が出土しているそうですから、そこに多摩丘陵に定住した人たちの石斧の製作所があったのかもしれません(^o^)。
1979年に東京都立府中病院(現・東京都立多摩総合医療センター)の建設にあたっての事前調査で、府中市武蔵台二丁目で後期旧石器時代の遺跡が発見され、打製石斧26点、局部磨製石斧15点など総計4500点を超える石器が出土していたそうですが、ここは旧石器時代の石器製造所だったのでしょうか?
↑には「黒曜石などの遠くの石も利用されていました。黒曜石は、神奈川県箱根や長野県八ヶ岳周辺で採集されたものですが、東京にある遺跡まで歩いて持ち込んだものと考えられます。」と記されていますが、これは違うでしょう。旧石器時代から縄文時代には多摩川と多摩川低地は海だったのですから、遠距離の移動や物の運搬は舟だっただろうと私は思います(^o^)。南九州から多摩丘陵にやって来た人々も歩いてきたのではなく、舟で来たのでしょう。
この周辺には各時代の遺構や遺物がたくさんあるので、何度も行っているのですが、国分尼寺跡から鎌倉街道と伝わる道をもう少し先まで行けば、「武蔵台東遺跡公園」があって、そこにも敷石住居跡が展示してあったようです。府中市から多摩市にかけての台地には30000年以上前からずっと人が住んでいて、たくさんの敷石住居があったのですね。
国分尼寺跡
伝・鎌倉街道