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水上石器時代住居跡12

 
蓼科湖も塩湖だったのではないか?と考えて地図を見ると、「渋」という文字が目につきました。蓼科山(2530m)の西南の山麓から蓼科湖にかけて広がる蓼科高原には、武田信玄の隠し湯として開かれたといわれている奥蓼科温泉郷があり、渋温泉(信玄の薬湯)・渋川温泉・渋の湯温泉・渋御殿湯(信玄の隠し湯)などがあって、ここには渋川が流れているそうです。

この「渋」というのは海や塩と関係があるようですから、これらの温泉は塩湯で、渋川は塩川だったのではないでしょうか。

このところハロウィンの狂騒でニュースになっていた「渋谷」を流れる「渋谷川」は海の跡ですし、「渋谷(しぶや)」は元は「塩谷(しおや)」だったという説もあるそうですし(^o^)、大鹿村の塩川や鹿塩川が流れ込む川も「小渋川」という名前なのです。
 
中央構造線博物館の前を流れる「小渋川」
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イメージ 1

奥の橋の上まで行くと赤石岳が見えるそうです。
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イメージ 2

この小渋川は赤石山脈(南アルプス)の赤石岳山頂付近に発しているそうで、この赤石岳の山名は山肌が赤褐色であることに由来するもので、赤く見えるのは岩盤が赤色チャートでできているためだそうですが、チャートとは放散虫・海綿動物などの動物の殻や骨片(微化石)が海底に堆積してできた岩石ですから、八ヶ岳は海底から隆起してきた山々なのです。それなら世界の山々と同じように塩湖や岩塩があっても不思議はなかったわけですね(^o^)。赤石岳にも岩塩があって、赤石岳から流れてくる小渋川も塩川だったのかもしれません。
 
今は海のない群馬県ですが、古代には群馬にも海があったのですし、群馬県には多くの石器時代の住居跡があり、旧石器時代からずっと人が住んでいたのですから、群馬県の渋川も海や塩にちなむ地名であろうと思います。
 
ところで、資料には「大鹿村」と「鹿塩村」が出てくるので、この二つの村の関係はどうなっているのだろう?と調べてみたら、幕末までは大河原村と鹿塩村の二村があって、この二村はともに幕府の直轄領だったのだそうですが、1875(明治8)年に合併して「大鹿村」になり、1879年に分離してまた大河原村と鹿塩村になり、1889(明治22)年に再び合併して「大鹿村」になったそうですから、「鹿塩村」は1875年までと1879188910年間に存在した村の名で、1889年以降は「大鹿村」ということのようです。
 
その名残か大鹿村には大河原地区と鹿塩地区の二か所に村の中心があるそうですが、鹿塩川と塩川の合流地点のある鹿塩地区には「塩河」・「塩原」という地名があるようですから、岩塩や塩の川だけではなく塩原(えんげん)もあったのかもしれませんね(^o^)
 
今も塩湯が湧くという鹿塩温泉を少し遡ってみたら、ここにも「入谷塩壺」という地名がありました。「塩壺」というのは「塩泉」ということでしょうか?葦原神社(元・本諏訪社)はこの塩壺の北にあったのですね。写真を見ると鳥居には「諏訪本社大明神」の扁額がかかっていました。
 
現在の諏訪大社上社のある一帯をタケミナカタの到来以前に支配していたのは漏矢神(諏訪大社神長官・守矢氏の先祖)だったのですから、諏訪盆地に進出する前のタケミナカタはここにいたのかもしれませんね。ここから中央構造線に沿ってまっすぐに諏訪に向かう道(秋葉街道)は、杖突峠を越えて守矢氏のいた前宮のすぐ近くにに出る道ですし、鹿塩の塩泉はタケミナカタが発見したと伝わっているのですし(^o^)
 
タケミナカタと漏矢神(守矢氏の先祖)の関係については「古代の地形から『記紀』の謎を解く」をご参照ください。
 
 

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