2018.9.7 コメントへのお返事
大変な問題が示唆されていることをこちらで知りました。日本書紀と日本紀、万葉集の中での明治大日本帝国。大化の改新と天智、鎌足に対して中大兄と藤原卿が否定なら、仁徳から始まる万葉集は日本書紀の筋書に沿って 紀曰は日本書紀なのでしょうか。
――・――・――・――・――・――
「仁徳から始まる万葉集」というのは、巻頭の「籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ・・・・・」の歌のことでしょうか?
この歌は、学者さんたちの間では雄略天皇の歌だということになっているようですが、私は雄略天皇は架空の人物で、この歌は531年に磯城で即位した欽明天皇の歌だと考えています。
さらに学者さんたちが舒明天皇の国見の歌だとしている
大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は
の歌も、舒明天皇は架空の天皇ですし、この歌は天の香具山から見える海原に鴎が群れ飛ぶ情景を詠んでいるのですから、531年にヤマトに入った欽明天皇の国見の歌であろうと思います。欽明天皇の当時の奈良盆地は、鴎の群れ飛ぶ海であって磯城は文字通り磯だったのです。
『万葉集』は大伴家持が編纂したしたもので、「万葉人のおおらかな性の賛歌である」というのが学者さんたちの常識のようですが、その見方は全く違っていると思います。家持は職業歌人や作家ではなく、官人であり政治家だったのですし、
『万葉集』は誰でも見ることのできる出版物ではなかったのですし、当時読み書きができたのは支配階級の人だけで、庶民は歌を作るどころか、文字さえ知らなかったのですから。
私は「大変な問題を示唆」しようとして謎解きを始めたわけではなく、子どもの頃からずっと疑問に思ってきたことを論理的に考えてみようとしただけだったのですが、結果として『記紀』には史実とは矛盾する非論理的な「作り話」が多いこと、『万葉集』は当時大伴氏の「氏の長」であった家持が、表立っては口に出すことも書き記すこともできない事実を、多くの歌に混ぜ込んで一見そうとは分からない形で記した非常に政治的な書であることが見えてきてしまったのです。
その意味では、「万葉集は日本書紀の筋書に沿」って編纂されたものではなく、逆にウソ八百の『記紀』に対して少しでも真実を残したいという目的で編纂されたのではないでしょうか。
なぜ家持がそんなことをしたのかというと、大伴氏というのは、「5世紀後半に現れた大伴室屋が雄略朝に大連となって、それまでヤマト王権に参画して勢力を誇っていた葛城氏に替わって急速に台頭した氏族」なのだそうですが、学者さんたちが雄略期だとしている5世紀後半は、実際は464年に「倭王・武」となった応神天皇の時代ですから、大伴氏は応神天皇に抜擢され、代々応神系王族に仕えてきた氏族なのです。応神天皇の子孫の大海人皇子が決起した壬申の乱でその勝利に大きな役割を果たしたのも大伴氏の一族の大伴馬来田(まくた)と大伴吹負(ふけい)の兄弟でしたし。
崇神系王族や藤原氏にとっては宿敵のようなものですから目の敵にされていたようで、天武天皇が亡くなって藤原氏の時代になると大伴氏は徹底的に弾圧されています。
757年に藤原氏が仕組んだ「橘奈良麻呂の乱」では大伴古麻呂が殺され、785年に藤原氏が仕組んだ「藤原種継暗殺事件」では大伴継人をはじめ一族の多くが処刑されたり流罪にされたりし、当時すでに亡くなっていた家持も、事件に関与したとして埋葬を許されず、墓を暴かれて遺体を捨てられたそうですし、842年の承和の変では伴健岑が首謀者として流罪となり、866年の応天門の変では伴善男・中庸父子が首謀者とされて一族の多数が流罪となり、公卿としての(大)伴氏は断絶してしまったそうです。調べてみたら、これらはいずれも藤原氏による謀略で、冤罪だったようなのですが。
大伴氏の「氏の長」であった家持が『万葉集』の巻頭に応神天皇の孫であった欽明天皇の歌を据えたのは、意図的なものだったのだと思います。
私は『万葉集』の原書を見たことがないので確認はできないのですが、『万葉集』に「雄略天皇の歌」と書いてあるわけではないようですから、↑の歌が架空の雄略天皇や舒明天皇の歌だとされているのは『記紀』を信じる学者さんたちの解釈なのでしょうね。
ところで、この夏千葉の方に行ったのですが、木更津には「馬来田」の地名があって久留里線に「馬来田駅」があり、「道の駅馬来田」がありました。地名や駅名は「まくた」なのに、道の駅はなぜか「うまくた」となっていましたが(^o^)。
道の駅「うまくた」
この道の駅には「鎌足桜」もありました。
真偽は分からないのですが、千葉には木更津のこの地名の他にも、大友皇子は自害したのではなく東国に落ち延び、君津市の小櫃に宮を営んだとか、正妃の十市皇女は上総に逃げたが死産がもとで亡くなったとか、后の一人で鎌足の娘だった耳面刀自は鹿島に向かう途中匝瑳市の野手の浦で病死したとかといった「壬申の乱」にまつわる伝承が多数あるようです。
内裏神社