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学者さんたちの常識16 鉄の武器と武具

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2018.9.5 学者さんたちの常識16 鉄の武器と武具
 
初めて宋から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事安東大将軍倭王」に任じられ、朝鮮南部の軍事権を認められて、世界最大の墓(大山古墳)に葬られたことから見て、余昆(諡号・応神天皇)は、それまでにはなかった強大な力を持っていたことが分かるのですが、少し腑に落ちなかったのは、462年に百済から渡来してきたばかりの余昆が、なぜそれほどまでに強大な力を持ち、たった2年という短期間で倭王になることができたのだろう?ということでした。
 
一つの国を征服したり、王位を奪ったりするというのは短期間で簡単にできることではありませんよね。『古事記』は神武の東征に「安芸や吉備を落とすために何年もかかった」ことを記していますし、秀吉はとうとう朝鮮半島を征服することはできなかったのですし・・・・
 
2011年に「古代の地形から『記紀』の謎を解く」を書いた時には、余昆は単身で渡来してきたのではなく、後に「東漢氏(やまとのあやうじ)」とよばれた武人集団(軍隊)を引き連れてきていたというところまでは分かったのですが、それでも崇神王朝にも「西漢氏(かわちのあやうじ)」という武人集団(軍隊)があったのですし、地の利もあったはずですから、崇神王朝の方が圧倒的に有利だったのではないか?と。
 
応神天皇やその子孫たちは、秦氏や宗像氏とずっと深い関係を持っていたことなどから、その後の探訪と推理で、余昆は中国の秦から渡来していた様々な先進技術を持つ秦氏の一族や、戦のスペシャリストだったらしい(?)呉国から渡来していた宗像氏・海人族の支持を得ていたようだということが分かってきたのですが、それでもたった2年で倭王になれたことがまだ少し腑に落ちませんでした。
 
「倭の五王」の番組の中で、倭王・武の時代には武器や武具が飛躍的に発展したという話が出ていました。それまでの鎧は小さな鉄片を革ひもでつなぎ合わせて作られていたのだそうですが、この時代に板金が発展して一体型で作り、鋲止めすることで簡単に大量生産ができるようになったのだそうです。また、軍事用語に「アシンメトリック・ウォー」という言葉があり、これは軍事技術に圧倒的な差がある場合、とてもかなわない思えば戦いさえ起らないことを言うのだそうです。
 
それを聞いて以前韓国歴史ドラマで見た鉄の話を思い出しました。高句麗建国の頃の朝鮮半島では、銑鉄の脆い鉄剣しか作れなかったため、堅い鋼鉄の剣を持つ中国に全く歯が立たず、何とか鋼鉄を作ろうと苦労していたようです。武器や武具の優劣が勝敗を決する大きな要因だったのですね。
 
スサノオの時代の鉄はまだ脆い銑鉄だったようですが、それでも木や青銅よりは格段に強度があったでしょうから、スサノオとその子孫たちが短期間に多くの小部族国家を傘下に置く「大国主体制」を作れたのは鉄の武器や農具を持っていたからでしょう。
 
学者さんたちの常識では、「大量生産できる鋼鉄製の鎧や武器やそれを作る技術は、在来の技術が国内で発展したもの」と考えられているようですがそうではなく、それらは百済から渡来した余昆が持ち込んだものであろうと思います。余昆が短期間に崇神系王族に代わって倭王になることができたのは、当時朝鮮半島で作れるようになっていた従来の銑鉄の脆い武器とは全く強度の異なる武器や武具を大量に持っていたためだったのでしょう。
 
鉄の武器や農具で短期間に「大国主体制」を作り上げた「スサノオと出雲族」の戦いも、たった2年で倭王の座に就いた「余昆と東漢氏」の戦いも、木や石や青銅のこん棒や刺し子の鎧しか持っていなかったインカを、鉄の武器や鉄砲で征服したピサロたちの戦いも、鉄砲や大砲で戦っていた日本が原爆を落とされてなすすべもなく降伏したのも、この「アシンメトリック・ウォー」だったのですね。
 
 
 

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