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「金印・志賀島・阿曇族」63 宮地嶽古墳51 『記紀』は「ウソばっか」21

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2018.8.11 「金印・志賀島・阿曇族」63 宮地嶽古墳51 『記紀』は「ウソばっか」21
 
『諸国一之宮』によれば、ウマシマジを祀る石見国一之宮の物部神社には、「ウマシマジは(神武の東征の時)祖父・ナガスネヒコを殺害して軍勢を率いて天津族に帰順し、その功績によって天皇から「ふつみたまのつるぎ」の神剣を与えられた」と伝えられているようです。
 
『記紀』という作り話で刷り込まれた固定観念を取り払えば、いろいろなところに『記紀』が隠した事実がポロリポロリと問わず語りに記されていることが分かるのですが、『記紀』を盲信する学者さんたちの眼には入らないようで、もし入ったとしても学者さんたちは自分の説に都合の良いものや都合の良い部分だけしか取り上げないようです<(_ _)>
 
東征をしたのは紀元前の神武ではなく4世紀後半の崇神ですから、この時ウマシマジが祖父の大国主・ナガスネヒコを殺してその論功行賞として崇神天皇から剣を貰ったのであれば、この剣はずっとウマシマジが持っていたはずで、ウマシマジを祀っている石上ならともかく鹿島にあったはずはありませんよね。
 
そこで石上神宮の「ふつみたまのつるぎ」を調べてみると、こちらは「韴霊剣」ではなく「布都御魂剣」となっていて、直刀ではなく柄頭に環頭が付いている85㎝くらいの内反り(通常の日本刀とは逆に刃の方に湾曲)の片刃の鉄刀だそうですから、形も大きさも全く違うようです。鹿島神宮の「国宝・韴霊剣」は↓のような直刀なのですから。

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鹿島神宮の韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)と石上神宮の布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)とは全く別物のようですが、それではなぜ、鹿島の剣が石上の御神体になったということになっているのでしょうね???
 
鹿島神宮の韴霊剣は、奈良時代末期から平安時代初期に作られたものだそうですから、この3mもある剣は、『記紀』が完成した後(720年以降)に『記紀』のウソに合わせて「神代のタケミカヅチというカミサマの持ち物」として作られたもののようです。
 
2,3日前の新聞に南北朝時代の武将、楠木正成・正行親子の最後の別れを描いた「楠公父子桜井の別れ図」の絵馬を模写復元し、正成を祭る神戸市の湊川神社に奉納するプロジェクトが進んでいる」という記事があったのですが、「桜井の別れ」は『太平記』の創作で、「桜井の驛」は実在しないようです。けれど「史跡・桜井驛」は存在していましたし、そこでの別れの場面を描いた絵も存在しているのですよね。
 
史跡・桜井驛
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たまたま今日「日本の美・聖徳太子絵伝大屏風」という番組を見たのですが、聖徳太子は架空の人物で数々のエピソードは作り話でも、それらのエピソードをまるで事実のように絵にしたものや、聖徳太子の肖像はたくさん存在しているのです。

聖徳太子の肖像
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ニンゲンは実在しない史跡でも、カミサマでも、その肖像や肖像画でも、根拠のない御神徳でも、由緒でも、神宝でも、なんでも都合のいいように作ってしまうようですから、鹿島神宮の韴霊剣も、石上神宮の剣とは全く関係なく、『古事記』が記した架空のカミサマであるタケミカヅチを祀る鹿島神宮が作り、その剣が鹿島にある理由として「石上神宮から戻ってこなかったので新しく作った」というオハナシも作ったのではないでしょうか(^_-)
 
けれどタケミカヅチは、神代に空の上にいたカミサマではなく、天津族の崇神天皇と皇后イスズヒメ(事代主の娘)との間に生まれた三人の息子のうちの次男の神八井耳命(カムヤイミミノミコト)で、フツーのニンゲンだったのですから、85㎝の刀ならともかく3mもある刀を振り回せたはずはありません(^o^)
 
カミではなくニンゲンだったタケミカヅチが、東征してきて常陸でミカホシノカカセオと戦った時には、命からがら敗走したこともあったようです。

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