Quantcast
Channel: 歴史探訪
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

金印・志賀島・阿曇族」47 宮地嶽古墳35 『記紀』は「ウソばっか」5

$
0
0
2018.7.25 「金印・志賀島・阿曇族」47 宮地嶽古墳35 『記紀』は「ウソばっか」5
 
大津宮跡だとされる錦織周辺は、都があったところだとは思えませんでしたが、それではなぜここに「大津京」があったと考えられるようになったのでしょうね?
 
Wikipediaによれば、明治時代に喜田貞吉(歴史学者)が条坊制の存在を信じて文献史料にはみえない「大津京」という語を用いたのだそうです。それでは「大津京」というのは、確かな根拠のあるものでも検証されたものでもなく、歴史学者さんお得意の「ここに条坊制の都があったと考えたい」「近江京は大津京だと考えてよい」という類の恣意的な「説」だったようですが<(_ _)>、「それ以降、歴史地理学や考古学の研究者がこの語を用いるようになり、近年では条坊制の存在を否定する研究者までがこの語を用いているため、その概念や定義は極めて曖昧となり、研究に混乱をきたしている」のだそうです。
 
喜田氏が条坊制の都「大津京」があったはずだと考えたのは、文献の「大津に遷都した」ということや「天智天皇は政治改革を目指して近江令を発布した」ということを信じて、律令制に基づいて都を作ったなら条坊制の都だったはずだと思ったからなのでしょうね。でも、喜田氏は文献を頭から信じただけではなく、文献にはない「大津京」という言葉や「条坊制の都である」という概念まで作ってしまったということのようです。
 
『古事記伝』や「邪馬台国畿内説」でも感じたのですが、古代史の世界では、肩書きや権威をお持ちの学者さんが「説」を発表すると、後に続く方たちは何の疑問も持たず、検証もせずにそれを既定の事実としてしまうのですね<(_ _)>。以前「学者」とは、無批判に先人の真似をする人のことなのかな?と考えたことがあったのですが(^_^.)
 
それに、「お説ごもっとも」と言っていれば安泰で身分も保証され、勲章を貰ったりもできるようですが、教授の説とは異なることを考えたり書いたりすると、その世界にはいられなくなるようですしね(T_T)
 
また、「JR西日本湖西線の西大津駅は、地元自治体の請願により20083月に『大津京駅』に改称されたが、『大津京』という用語や概念をめぐり更なる誤解や混乱を生む恐れが指摘されている」のだそうです。私も「大津京駅」や「大津京」という語に惑わされて、そこに「大津京」という都があったのだと思って行ってみたのですが(T_T)、現場で感じたように、ここには条坊制の都など無かったようです。
 
文献には「近江京」とあるだけで実際には都はなかったのに、ずっと後になって「大津京」という言葉が作られて、どの学者も「大津京」という言葉を使うようになり、さらには「大津京駅」までできたため、一般人がここに「天智天皇の大津京」という都があったと信じるようになったという過程は、文献には「厩戸王」とあるだけで実際はそんな人はいなかったのに、ずっと後になって「聖徳太子」という言葉が作られ、肖像や伝奇や金石文や逸話が山ほど作られて聖徳太子を祀るお寺や廟まで作られ、一般人が「聖徳太子という聖人がいたのだ」と信じるようになって、その肖像画とされるものが一万円札にまでなった過程と全く同じですね。
 
イメージ 1

 
これは聖徳太子の時代の人物の絵ではないということが分かったため、教科書からも一万円札からも消えたはずなのですが、「新しい教科書を作る会」はこの肖像画も教科書に復活させてしまったようです。
 
大津京についても、『記紀』を信奉し文献のみに拠って説を立てているアカデミックな方々は、何の疑問も持たずに「大津に遷都した天智天皇の都は錦織の大津京である」とお書きになり、アマゾンにレビューを書かれた権威や肩書を信奉する(?)「くま」さんのような方々は、「大津京はなかったなどというのはでたらめもでたらめ」とまた怒りまくるのでしょうね<(_ _)>
 
 
 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

Trending Articles