敏達天皇は実在しなかったのではないかと考えて、2015年に敏達天皇の宮があったと推定されている桜井市の戒重へ行ってみたのですが、やはりここに敏達天皇の宮(皇居)があったとは思えませんでした。
推定地とされる春日神社
また、敏達天皇の陵を宮内庁は大阪府南河内郡太子町大字太子にある河内磯長中尾陵だとしているそうですが、敏達天皇は飛鳥時代の大王だったのにその宮は都のあった飛鳥ではなく桜井市にあり、お墓は都のあった飛鳥でも、宮があった桜井市でもなく、山の向こうの大阪にあるというのはどう考えても変ですよね。宮跡も見つかってはいないようですし、やはり敏達天皇は実在の天皇ではなく、河内磯長中尾陵は敏達天皇のお墓ではないようです(^o^) 。
改めてwikipediaの「用明天皇」の項を見てみたら、
「高向王(寶女王(のちの皇極天皇)の最初の夫)の祖父とされる。」
と記されていました。
高向王とは石川流域の高向を封地(食邑)としていたアメノタリシヒコ(馬子)の息子の蝦夷のことで、アメノタリシヒコの父が用明天皇なのですから、用明天皇は高向王(=蝦夷)の祖父になるわけですね(^o^)。
河内長野市高向の高向神社
この下の谷を石川が流れています
最初の夫・高向王(=蝦夷)と寶女王の間に生まれたのが大海人皇子(=漢皇子・後の天武天皇)なのです。舒明天皇と騙られている人は寶女王の二度目の夫で、その間に生まれたのが中大兄(後の天智天皇)なのですから、大海人皇子は中大兄の弟ではなく異父兄なのです。
年齢を計算すると弟のはずの大海人皇子の方がどうしても年上になってしまうということで、学者さんたちの間ではこれも「謎」または「書き間違い」とされてきたようですが、「大海人皇子は舒明天皇の子で中大兄皇子の弟である」というのは『記紀』の作り話であってウソなのです(^o^)。
なぜこんなウソを書いたのかというと、父の田村を舒明天皇に仕立て上げ、母の寶をも皇極天皇に仕立て上げるというウソにウソを重ねたオハナシを作ってせっかく中大兄を両親が共に天皇というこれ以上はないほどの正統な皇位継承者に仕立て上げたのに、そこに同じ条件の兄がいたのであれば、皇位を継ぐのは当然天皇の長子であるその兄だということになりますよね。
ところが王位に就いたのは天智なのですから、それを正当化してもっともらしいオハナシにするには、姑息な手ではあっても中大兄が兄で大海人は弟だったことにする必要があったということでしょう(^_-)。
乙巳の変の後、母の弟の軽皇子が天皇(孝徳天皇)になったものの中大兄に難波に遺棄されて亡くなり、その後母親が重祚して斉明天皇になったとしていますが、これも作り話です。そもそも舒明天皇は架空の天皇なのですし、もし実在したとしても、その妻や妻の弟には皇位継承権などなかったのですから(^o^)。
作り話にしても、この孝徳天皇のオハナシはあまりにも哀れすぎると思うのですが(T_T)、もう少しましなオハナシを創ることはできなかったのでしょうか。
乙巳の変といえば、昨日テレビで、外国人に分かりにくいことの一つが日本だけで使われている「元号」で、この元号の始まりは「大化の改新」で知られる「大化」であるが、今は「大化の改新」とは言わず「乙巳の変」と言うのだと言っていました。どう研究してみても「改新」など何一つしていなかったことが明白になってきたということでしょうか(^_-)。
「元号」については、日本人の私でも、あんな不便で紛らわしいものは早くなくしてほしいものだとずっと思っているのですけれどね~。