2018.7.13 「金印・志賀島・阿曇族」38 宮地嶽古墳27
応神系王族が崇神系王族から王位を取り戻したクーデター・壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)の勝利に大きな役割を果たしたのが、天武天皇の長子の高市皇子だとされていますが、年若く実戦経験もない高市皇子にクーデターを成功させるようなめざましい働ができたとすれば、それは素早く必要な情報を集めて分析し、的確な戦術や戦略を立てて、それを確実に迅速に実行させることのできた組織だった人達と、そのための費用を用意した人が周りにいたからだったのではないでしょうか?
高市皇子の母は、宗像徳善の娘の尼子娘なのですが、宗像氏は、豪華な宝物が大量に出土したことで「海の正倉院」と呼ばれている沖ノ島や、天皇墓と同等の巨大石室を持ち大量の豪華な副葬品が出土したことから「陸の正倉院」と呼ばれている宮地嶽古墳の主であり、古墳群のある北九州のこの一帯は宗像氏の本拠地だったのですよね。
壬申の乱の時、大海人皇子側に兵や武器や兵糧を提供したのは、この大きな財力を持っていた義父の宗像徳善と海人族だったのではないでしょうか。このクーデターが成功すれば、娘婿が大王になり、娘は王妃となって、孫は次の大王になるわけですから(^o^)。
『古事記』が作られたのは712年ですから、壬申の乱の頃にはアマテラスはまだ創り出されていませんし、アマテラスの子孫が天皇になるという思想もまだ作られていなかったはずです。当時は中国も朝鮮半島も日本も、武力で勝った者が王となる時代で、国や王統は消長を繰り返していたのですよね。
中国では唐が隋にとって代わり、朝鮮半島では抗争の末に高句麗と百済が滅び、日本では、崇神系(倭王・讃~倭王・興)→応神系(倭王・武=応神天皇~ウジノワキノイラツコ)→崇神系(継体)→応神系(欽明~入鹿)と目まぐるしく王統が入れ替わっていたのです
王位はカミサマが与えてくれるものではなく武力で勝ち取るものだったのですから、そのためには多くの兵と武器、豊富な資金、優れた戦略と戦術が必要だったはずなのです。
ところで、「武蔵国造の乱」の時に北武蔵の笠原使主が援軍を送ってくれた欽明天皇に献上した4郡のうち、横渟(よこぬ)が具体的にどこなのかが分からなかったのですが、北武蔵の「横見郡」と南武蔵の「横山」との二つの説があるそうです。
けれど、↑のように横見郡は北武蔵の使主の本拠地の笠原に近い所のようですから、そこを献上するということはあり得ません。献上したのは新たに手に入れた南武蔵の一部だったはずです。
この「横山」を見て「おや?」と思ったのですが、これは小野氏の子孫が本拠地とした八王子の横山のことのようです。
光仁天皇を即位させた藤原氏が絶対的な権力を揮うようになってから、小野氏の子孫は武蔵国府の対岸の小野神社や小野牧のあった場所から八王子の横山に本拠を移したようですが、この時、もし横山が他人の領地であったなら、勝手に本拠地になどできなかったでしょうから、横山はもともと小野氏の領地だったのではないでしょうか。
やはり「横渟」は北武蔵の「横見郡」ではなく、笠原使主から欽明天皇に献上されその後小野氏に封地(食邑)として与えられていた八王子の「横山」のようですね。