Quantcast
Channel: 歴史探訪
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

水稲荷と穴八幡34 早稲田大学13 早稲田の森2

$
0
0

2018.2.8 水稲荷と穴八幡34 早稲田大学13 早稲田の森2

 
現在の早稲田には秀郷が船を繋いだ海も、早稲田田圃も、源兵衛村の水車も、早稲田の森もなく、飛び交うホタルもいないのですが、相馬御風が「都の西北早稲田の森に」と歌い上げた明治40年頃には「早稲田の森」はちゃんとあったのです。
 
昔の東京を知らない私には「早稲田の森は本当にあったのか、どこにあったのか」は謎だったのですが(^_-)、御風は空想や誇張でこの詞を作ったわけではなく、自分が実際に見ていた景色を歌にしたのです(^o^)
 
わずか100年ほど前の地形や風景でさえ、今の地図からは想像もできないほどに変わってしまっているのに、学者さんたちは今の地図や地形で1000年も2000年も前のことを解釈し、矛盾が生じると屋上屋を重ねるような「説」を次々に作り出しては何とかつじつまを合わせようとしているのですよね<(_ _)>
 
でもそれらは謎でも矛盾でもなく、御風が校歌を作った明治40年頃には早稲田には「早稲田の森」があったのですし、10世紀に秀郷が船を繋いだときには早稲田には海があったのですし、8世紀初めに高橋虫麻呂が筑波の歌垣で「その津の上に」と歌った頃には時筑波の麓には「津(海)」があったのです。
 
そして、6世紀前半(531年の辛亥年)に大和の磯城で即位した欽明(きんめい)天皇が、天香具山で国見をして「海原に鷗立ち立つ」と歌った頃には奈良盆地は海で、その海原には本当にかもめが群れ飛んでいたのです。

磯城はそこが「磯(いそ)」であったことを、石上(いそのかみ)は「磯の上」で、そこが湾の一番奥だったことを示す地名であろうと私は思います。
 
↓は国土地理院作成の地図ですが、奈良盆地が水底であったことはすでに分かっているようです。ただし、国土地理院の方々は海ではなく湖だったと考えているようですが・・・・

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4
 
また、この歌を作ったのは7世紀半ばの舒明(じょめい)天皇ではありません。「舒明天皇」は中大兄(天智天皇)を天皇の子である「皇子」に仕立て、皇位についたことを正当化するための『日本書紀』のウソで、実際には天皇にはなっていないのですから。
 
学者さんたちは、現状を元に「奈良には海がなかった」ことを前提とした上で、なんとかして「海原に鷗たち立つ」の歌のつじつまを合わせようとしてきたようですが、「古代の地形から『記紀』の謎を解く」にも書いたように、古歌や風土記などに記されている現在とは全く違う地形や風景は、作者の空想や見立てやでたらめなどではなく、みなその当時その作者が実際に目にしていたものであって、現在の地形や風景の方が当時の様子を想像できないほどに変わってしまっているのです(^o^)
 
最近テレビ番組の中では、古代の地形をCGで見せてくれることが多くなりましたが、CGではなく、淀橋台や本郷台の麓が古東京湾の入り江で海だった頃に本当にタイムスリップして、入り江に面した台地の縁に古墳群が並んでいた頃の風景を実際に眺め、「古代の地形から『記紀』の謎を解く」やこのブログに書いてきた推理を確かめてみたいものです(^o^)



Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

Trending Articles