2018.1.31 水稲荷と穴八幡27 早稲田大学6
さらに早稲田界隈のタイムスリップを続けます(^o^)。
昭和38年まで水稲荷神社は宝泉寺の北側にあったそうなので、位置関係と地形を確かめてみようと宝泉寺に行ってみました。確かに墓地のすぐ向こう側が9号館の建物になっていて、お寺の案内にも9号館の辺りに高田富士があったと記されています。
毘沙門山とはどこのことなのかが調べても分からなかったのですが、この墓地は、西(左)側の早稲田通りの方に向かってだんだんに高くなっていましたから、ここが毘沙門山といわれていた所なのかもしれません。
↓の宝泉寺が描かれた江戸名所図会の「堂」の文字の辺りに赤い鳥居が描かれていますから、毘沙門堂(山)から北が水稲荷神社の旧社地だったようですが、この絵の頃には寺域に墓地や墓石はなくて、名所図絵に描かれるような風光明媚な地だったようです。現在のような墓石ばかりが並ぶ殺風景な墓地になってしまったのは明治以降のようですね。
その頃の寺域は、社地と合わせると早稲田大学キャンパスの大部分が含まれるほど広大だったそうで、↑の本堂は現在大隈重信像がある辺りにあったのだそうです。
この図絵には「高田稲荷・毘沙門堂・富士山・?・?・寶泉寺」と記されているのですが、「本堂」の上の方にも鳥居が描かれていますから、その上方に描かれている山が「高田富士」で、左側のお椀を伏せたような山が富塚古墳のようです。この図を見ると、富塚古墳は前方後円墳ではなく円墳だったようですね。
早稲田通りを挟んで穴八幡の向かい側に第3西門があって、その奥に富塚跡の説明板のある植え込みと9号館があったのですが、『早稲田わが町』によると、ここは水稲荷神社の参道だったのだそうです。
かつての参道は
現在は↓のようになっています。
正面奥の建物が9号館で、その手前に「富塚跡」の表示があったのですが、そこだと参道を塞ぐような位置になってしまいますから、富塚があったのはそこではなかっただろうと思うのですが。右側の高い所が宝泉寺の墓地で段差があるのですが、この辺りは毘沙門山の裾をだいぶ削ったのでしょうか?
↑の図絵では、宝泉寺の本堂に近い方の鳥居の正面に社殿があって、大きな太鼓橋のようなものも見えますから、そちらが表参道で、現在の第3西門のほうの参道は西参道だったのかもしれません。