2018.1.22 水稲荷と穴八幡18 奈良盆地と海2
さらに言えば、万葉集の冒頭にある
籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも
は雄略天皇の歌とされていますが、雄略天皇も架空の天皇ですから、「大和の国はおしなべてわれこそ居れ しきなべてわれこそ座せ」というこの歌も、大和を制圧して磯城で即位し、天津族として初めて大和に宮を置いた欽明天皇の歌であろうと私は思います。
宮内庁が雄略天皇の墓だとしている古墳は、明治に宮内省(神祇官?)が近くにあった円墳と方墳をくっつけて前方後円墳に偽装したものだったようですしね(^_-)。
今は円墳部分を「島泉丸山古墳」として「雄略天皇陵」だということにしているようですが、誉田山古墳や大仙古墳のような巨大な前方後円墳が天皇陵として造られていた時代の天皇である「雄略天皇」の墓が直径76mの円墳のはずはありませんよね(^o^)。
その間の現場検証の記録と推理と解明の過程は、全部このブログの中にあるのですが、膨大な量になってしまっているので簡単には「古代の地形から『記紀』の謎を解く」をご参照ください。
2011年以降に分かってきたことはこのブログの中にしかなく、この6年の間に新しく分かってきたことも多いので、本に記したことは少し違っているところもあるのですが、大筋では本に書いたとおりです。
例えば、2011年の時点ではまだ、用命天皇は敏達天皇の弟だという『日本書紀』の系図や学者さんたちの解釈を信じていたので、敏達天皇は実在の天皇で、その弟で即位して1年で死んでしまったという用命天皇は、架空の聖徳太子の父として創られた架空の天皇なのではないかと考えたのですが、その後、敏達天皇は欽明天皇の息子ではなく天皇にもなっていなかったことや、用命天皇が欽明天皇の長子で、欽明天皇が571年に亡くなった後571年から585年まで在位していた実在の天皇だったことが分かってきました。
「用命天皇は即位してたった1年で死んでしまった」というのは、架空の敏達天皇を押し込むためのウソだったのです。
また、欽明天皇は継体天皇の息子で安閑・宣化の弟であり、継体―安閑-宣化の次に即位して29代天皇になったというのは真っ赤なウソで、531年に「辛亥の変」で継体・安閑・宣化を倒して磯城で即位したというところまでは2011年までに分かっていたのですが、欽明天皇はウジノワキノイラツコの息子で応神天皇の孫だったことや、アメノタリシヒコ(=馬子)はその欽明天皇の孫であったことなどが2011年以降の現場検証と推理で分かってきました。
疑問に思ったことの因果を辿っていくと、次から次へと『記紀』のウソが分かってくるので、いったいあとどのくらいのウソがあるのだろう?とウソと作り話ばかりの『記紀』とそのつじつま合わせの解釈にウンザリしてきて、きりがないからもう止めてしまおうと思ったくらいだったのですよね~<(_ _)>。
ウソといえば、応神天皇の在位時期も、応神天皇の母は神功皇后だったというのもウソで、神功皇后は1926年(大正15年)に歴代天皇から削除されてしまっています。同じく架空の人物である夫の仲哀天皇は、まだ14代天皇として居座っているようですが(^_-)。
梅山古墳
見瀬丸山古墳