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水稲荷と穴八幡17 奈良盆地と海

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2018.1.21 水稲荷と穴八幡17 奈良盆地と海

 

古歌や風土記に記されているのはそれを記した人が実際に目にしていた地形であって、虫麻呂の「筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に・・・」という歌には何の「謎」もなく、「謎」を作り出していたのは学者さんたちの「地形は不変だ」という誤った思い込みなのです。

 

さらにこの虫麻呂の筑波の歌垣の歌に関しては、学者さんたちは万葉仮名の「交牟」を「交はらむ」と読んで、まるで無秩序な集団乱交パーティーでも行われていたような解釈をしているのですが、

 

万葉仮名の「吾毛交牟」は「あも交はらむ」ではなく「われも交らむ」なのではないでしょうか?歌垣が学者さんたちの言うような「若い男女の求愛の場」だったのだとすれば、そこに人妻が大勢参加していたはずはないと私は思うのですけれどね~(^_-)

 

1011世紀に秀郷や頼朝が武蔵国にやって来た頃には本郷台や淀橋台の下は海で、8世紀初めに高橋虫麻呂が常陸国にやって来た頃には筑波の麓も海だったのですが、それよりさらに前の「辛亥の変」で政権を取った欽明天皇が531年に磯城で即位した頃には、奈良盆地も海だったのです。そのことは、↓の欽明天皇の歌から分かるのですが、この欽明天皇が即位した辛亥年を、学者さんたちは571年とし、この歌は舒明天皇の「国見の歌」だとしているのですよね<(__)>

 

大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち

国見をすれば国原は煙立ち立つ海原はかもめ立ち立つ

うまし国そあきづ島大和の国は

 

↓の表紙カバーの地図は、6世紀の欽明天皇の頃よりさらに前の、2~3世紀の大国主の時代を想定したものですが、この歌が詠まれた6世紀前半にもまだ奈良盆地はかもめの群れ飛ぶ海原だったのです。飛鳥にも「豊浦」の地名が残っていますしね(^o^)。けれど7世紀の舒明天皇の頃には、もう海は退いて低地は湿地になっていたのです。

 
イメージ 1

 

その上、571年から649年の間は、欽明天皇の息子の用命天皇と、大臣・蘇我氏として隠された用命天皇の子孫の馬子・蝦夷・入鹿が大王だった時代で、舒明天皇(在位629~641年)は架空の天皇なのですから、この歌は、舒明天皇の歌ではなく、531年の辛亥の年に磯城で即位した欽明天皇の歌なのです。

 

このことについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」をご参照ください




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