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水稲荷と穴八幡

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2018.1.5 水稲荷と穴八幡

 

七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)一つだに無きぞ悲しき

 

ずいぶん前のことになりますが、「大田道灌の山吹の里のエピソードの場所は現在の面影橋の辺りで碑がある」ということを知って、「ヘェ~ あの辺りは大田道灌の頃には農村だったのか」と思ってその碑を見に面影橋へ行ってみたのですが、橋の近くではその碑を見つけることができませんでした<(_ _)>

 

そこで道の反対側を探してみたら、新目白通りに面して「水稲荷神社」という石柱があったので、ここかな?と行ってみたのですが、入り口には大きな石柱や石灯篭があったのに、入って行った先には参道らしきものも社殿もなくて空き地か子供の遊び場のようになっていたので、ここは神社の跡地なのかな?と思いながら「山吹の里」の碑を探してみたのですが、そこにも何もありませんでした。

 

新目白通りの社標と石灯篭


イメージ 1

 

そのことをふと思い出して、水稲荷はどこにあったのだろう?と地図で探してみたら、水稲荷神社の隣には甘泉園という回遊式の日本庭園があり、神社には富士塚もあることが分かったので、改めて行ってみることにしました(^o^)

 

新目白通りに面してはビルが並んでいて道から奥は見えないので、何度も通っていたのにこれまで庭園や神社には気が付かなかったのですが<(_ _)>、ビルのすぐ後ろに台地の斜面を利用した庭園の門があり、その庭園の一番高いところに水稲荷神社に通じる門がありました。以前に見た空き地は神社の跡地ではなく、その空き地の奥に山(台地の端)があって、神社はその台地の上にあり、新目白通りに面した入り口は、その台地の上にある神社の裏手へ上る狭い急な石段に通じていたのです。

 

神社の裏手には三島社がありましたが、↑の写真には「三島参道」と記されていますから、新目白通り側の参道はその三島社への参道だったようです。

 

甘泉園を含むその一帯は徳川御三卿の清水家の下屋敷があった所で、現在は水稲荷の末社となって裏手にある三島社は、清水家の守護神を祀っていた神社だったのだそうですから、江戸時代はこの三島社がメインだったわけですね。

 

甘泉園


イメージ 2

 
イメージ 3

 
イメージ 4

 
イメージ 5

 

位置関係は↓のようになっています。

 
イメージ 6



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