2015.10.2 善光寺いろいろ
今回は時間切れで阿智村までは行けなくなってしまいましたが、甲斐の善光寺・飯田の元善光寺(座光寺)・諏訪の善光寺を訪ねてみました。
甲斐善光寺山門
本堂
甲斐善光寺は、武田信玄が川中島の戦いでの焼失を恐れて、信州善光寺の本尊や寺宝などをそっくり甲府に遷したのが始まりだそうですが、その当時の伽藍は失火で焼失し、現在の建物は1796年に再建されたものだそうです。他の善光寺と違って山門や本堂が赤いのは時代の好みということでしょうか(^o^)?
本尊は武田氏滅亡の後、織田→徳川→豊臣と転々とし、1598年に信州善光寺に戻ったのだそうですが、6世紀に百済で造られ、聖明王から欽明天皇に贈られたこの仏像は、用明天皇(=蘇我稲目=馬子の父=アメノタリシヒコの父)の宮であった奈良の向原宮(向原寺)に安置された後、第一次崇仏戦争で難波の池に棄てられ、その後聖明王の子孫の余善光に拾い上げられて善光と共に飯田→諏訪→長野と移動した後、武田氏→織田氏→徳川氏→豊臣氏の手に渡り、1598年に信濃善光寺に戻ってきて秘仏になるという数奇な運命を辿ってきたようです。
・・・・ということは、この一光三尊の阿弥陀像は初めから秘仏だった訳ではなく、1598年以降に誰かが「秘仏」に仕立てたということのようですね(^_-)。
「古代の地形から『記紀』の謎を解く」を書いた時点では、聖徳太子の父の用明天皇は架空の人物なのではないかと考えたのですが、今年になって、用明天皇は実在した天皇で、敏達天皇が架空の天皇であったことが分かりました。そのことは今年の初めからの長~い推理と考察の結果分かってきたのですが、その推理を検証するために5月に飛鳥へ出かけ、「難波の堀江」が大阪ではなく飛鳥の向原宮にあった「難波の池」であったことが分かったことから、本田善光と善光寺の謎も解けてきました(^_-)。
歴史は全て因果関係なのです。
飯田の元善光寺
山門
回向柱
信州善光寺にお参りしたらこちらにもお参りしないと「片参り」とされていたのだそうで、こちらにも回向柱が立っていました。信濃善光寺の回向柱は5.30に片付けられたようですが、飯田ではずっとここに立っているのでしょうか?
諏訪善光寺
山門
本堂
長野と飯田だけで、諏訪にはお参りしなくてもいいのかな?と思って調べてみたら、信州善光寺は「無宗派の単立寺院」だそうですが、諏訪善光寺は「真言宗智山派」のお寺になっているそうですから、現在は善光寺の系列ではないのですね(^_-)。
2012年に藤井寺に行った時には、まだ小山に善光寺があることも本田善光のことも知らなかったので、小山善光寺には行っていません<(_ _)>。
この時には、葛井寺ではトイレのことを「うすさまかく」って言うのか、と初めて見る名前が珍しくて写真を撮ってきたことを思い出しました(^o^)。「うすさま明神」ってトイレのカミサマのようです。
葛井寺南大門
うすさま閣