2017.10.26 コメントへのお返事の続き
[ tjh*n2*2 ]さまは「渡来人研究会」に投稿なさっているということですが、「古代の日本人」はみな、元はどこかから渡来してきた人たちだったということをお考えになったことはあるでしょうか?
このブログの内容は、古代史の疑問について現場検証をしながら時空を超えて46億年前の地球誕生に飛んで行ったり、地球の内部に飛んで行ったり、宇宙に飛んで行ったりしていますが、これらはみな、古代史の謎(ウソ)を解くのに必要だったからなのです(^o^)。
天皇家や旧家が天から降って来たカミサマの子孫ではないことを証明するには、生命の発生や人類の発生、その移動まで遡らなければならず、生物物理学や分子生物学などの知識が必要になり、天孫が天下りしたという179億年前には日本どころか地球そのものがなかったことや日本列島はイザナミが生んだものではないことを証明するには、地球誕生や日本列島の成り立ちの知識が必要になる、というように(^_-)。
それらの科学的知識から、現人類は日本列島で発生したのではなく、まして天から降って来たカミサマがニンゲンになったのでもないことが分かりましたし、現人類が発生したアフリカからはるか遠い所にある日本列島に人類が到達した時期は遅く、各地から様々な人々が渡来して来た日本は人種の坩堝であり、「日本で発生した人類である日本人」はいないこともわかりました(^o^)。
当然大国主も、大国主を滅ぼした崇神天皇(紀元前の神武天皇は架空の人物です)も、応神天皇も、カミサマの子孫ではなくニンゲン(人類)であり、渡来した時期は違いますがみな渡来人なのです。
応神天皇は、事代主(=アジスキタカヒコネノミコト=鴨大神)の妹の息子の宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)ではなく、百済の第21代蓋鹵王(余慶)(在位455~475)の弟で、462年に渡来した余昆であり、百済の第25代武寧王(在位502~523)の父です。武寧王(余隆)は余昆が渡来してくる途中、462年に各羅(かから)島で生まれた斯麻(しま・島君)であり、そのことは1971年に忠清南道公州市(かつての熊津)の宋山里古墳群の武寧王陵から出土した墓誌にはっきりと記されています(^o^)。
このブログにはその謎解きの過程も記してあるのですが、膨大な量になってしまっていてどこに書いてあるか探すのも、読むのも大変ですから、簡単には「古代の地形から『記紀』の謎を解く」をご覧いただければと思います。お住まいの場所によっては図書館か資料館に置いてあるかもしれません。応神天皇のことも、宇摩志麻遅命のことも、物部氏のことも、大磯町の「国府祭」のことも簡単ですが全部書いてあります(^o^)。2011年以降に分かってきたことはこのブログの中にしかないのですが<(_ _)>。
海部氏も当然渡来人です。もし丹後一宮籠神社に伝わっているという系図や古伝承が、架空のカミサマを先祖として捏造したものではなく、事実を伝えているものだとすれば、確かに「これまでの記紀にもとづく皇室中心の古代史はひっくりかえってしまう」内容のものだろうとは思いますが、現在の日本は『記紀』信奉者の歴史学者さんと、神話を死守する神社本庁と、神社本庁の息の掛かった「国民会議」や「神道政治連盟」に属する国会議員ばかりのようですから、もし公表されても殆ど無視されて、「皇室中心の古代史」がひっくり返ることはないだろうと思います<(__)>。
実際に大国主の子孫である富氏や、諏訪大社の神長官の子孫である守矢氏が「一子相伝」で伝えてきた本当の歴史を(ほんの一部ですが)公表しても、『記紀』信奉は全く変わっていませんしね。