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奈良・小山田古墳の横穴式石室9

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2017.9.24 奈良・小山田古墳の横穴式石室9
 
二度も天皇になったとされている皇極天皇(宝皇女)の父は「茅渟王」ですから、皇女(天皇の娘)ではありませんし、皇極天皇の次の天皇とされている孝徳天皇(軽皇子)は皇極天皇の弟ですから、やはり皇子(天皇の息子)ではありません。つまり、この二人は天皇の子の皇女・皇子ではなかったのですから、この二人が天皇になっていたという『日本書紀』の記述はこの面からみてもウソでしょう。
 
敏達天皇が本当に実在の天皇だったのであれば、茅渟王は敏達天皇の孫ですから王族だったことになるのですが、敏達天皇は架空の天皇で、沼名倉太珠敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)が「敏達天皇」として在位したとされている期間の本当の大王はアメノタリシヒコ(聖徳太子)の父の用明天皇だったのですから、茅渟王も天皇の孫の称号である「王」ではなかったのです。
 
さらに言えば敏達天皇(沼名倉太珠敷命)の孫である田村皇子(舒明天皇)も曾孫である中大兄皇子も天皇の子である「皇子」ではないのですよね(^_-)
 
『日本書紀』は中大兄皇子の母の斉明天皇陵を小市崗上陵(おちのおかのうえのみささぎ)としているそうですが、この古墳は八角形墳なのでしょうか?もしそうでなければ、その古墳が斉明天皇陵だということは、『日本書紀』の真っ赤なウソだという証拠になるのですが(^o^)
 
もっともこの『日本書紀』の記述や宮内省の治定が信用されていたのであれば、牽牛子塚が八角形墳だと分かった途端に「これが本当の斉明天皇陵だ」などと学者さんたちの意見が一致したりしたはずはありませんから、本当は誰も信じてなどいなかったけれど信じているふりをしてつじつま合わせをしていたということなのかもしれませんね(^_-)。いずれにしても女帝も皇極(斉明)天皇も『日本書紀』のウソなのですから、斉明天皇の天皇陵というものは造られていないと私は思いますが
 
不比等は名目だけの「持統・元明・元正」の三人の女帝のあとに、さらに直系の成人男子であった天武天皇の皇子たちを退けて、まだ15歳(数え年13歳?)だった草壁皇子の子の軽皇子をゴリ押しで皇位に就け、その後宮に入れた自分の娘の宮子が男の子(後の聖武天皇)を生むと、24才になった軽皇子(文武天皇)も殺してしまったようです<(_ _)>
 
そう考えたのには以前に書いたようにいろいろ理由があるのですが、文武天皇も三人の女帝と同じように火葬にされているのですよね。もがりや、遺体を土葬するのが故人の再生を願ってのことだったのであれば、遺体を火葬にしたのは、二度と蘇らないようにということだったのではないでしょうか。

学者さんたちは、仏教の影響で持統天皇以降は火葬されるようになったのだとしているようですが、火葬にされたのはこの4人だけで、不比等の孫の聖武天皇以降は土葬に戻っているのです。
 
それとも火葬にしたのは、暗殺(毒殺?)の痕跡を消すためだったのでしょうか?現在でも殺人犯は犯行を隠すために現場に火をつけることが多いようですが。

八角形墳の中尾山古墳と火葬骨を納めた石槨


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