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奈良・小山田古墳の横穴式石室4

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2017.9.17 奈良・小山田古墳の横穴式石室4

 

石舞台古墳の近くにある都塚古墳の築造は「飛鳥の古墳」の資料では6世紀後半となっていましたが、この古墳は八角形だったのですから、石舞台古墳より後(622年以降)に造られたものでしょう。

 

都塚古墳

 
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学者さんたちは、都塚古墳の築造を6世紀後半だとしているうえに、石舞台古墳は豪族・馬子の墓で、馬子の父は蘇我稲目だと思い込んでいるので、都塚古墳の被葬者は馬子の父の蘇我稲目であろうとお考えのようです。
 

でも実際は、馬子は大王・アメノタリシヒコであり、その父は先代の大王・用明天皇だったのですから、馬子より前に亡くなった用明天皇の墓は、八角形ではなく前方後円墳のはずです。下方上八角形の都塚古墳は馬子の父の「豪族・稲目」の墓でも、大王・アメノタリシヒコの父の「大王・用明天皇」の墓でもないでしょう(^o^)

 

都塚古墳については2015.3.4からの↓にあります。

 

それでは石舞台古墳の近くに、同じ頃に同じような形で造られた大型の下方上八角形である都塚古墳の被葬者は誰なのか?という推理は2015.3.27からの↓にあるのですが、

 

この時はまだ『日本書紀』が「聖徳太子の父であり、敏達天皇の後に即位したけれどたった1年で死んでしまった」と記している用明天皇は、「架空の聖徳太子の父として創り出された架空の人物」なのではないか?と考えていたので、アメノタリシヒコ(=馬子=聖徳太子)は欽明天皇の息子だったのではないかと考えたのですが、その後、用明天皇がたった1年で死んでしまったというのも『日本書紀』のウソだったことが分かりました。敏達天皇が架空の天皇であり、『日本書紀』が敏達天皇の在位期間とした間の本当の大王は用明天皇だったのです。

 

それでは、実在した用明天皇の墓はどこにあるのかというと、現在宮内庁が欽明天皇陵に治定している墳長138mの前方後円墳・「檜隈坂合陵(平田梅山古墳)」であろうと思います。「ウソばっか」の『記紀』に合わせて決められた古墳の治定も「ウソばっか」なのです。

 

「都塚古墳の被葬者が稲目ではないというのなら、被葬者はいったい誰なのか?」「欽明天皇の墓はどこにあるのか?」についての推理に興味のある方にはブログに眼を通していただくことにして、結論だけ書いておくと、欽明天皇の墓は「見瀬丸山古墳」であり、都塚古墳の被葬者はアメノタリシヒコの弟で『日本書紀』が蘇我境部摩理勢と記した人物であろうと思います。

 

摩理勢は馬子の死後、甥の蝦夷と権力争いをしたと記されていますから、叔父と甥が王位を争って、叔父が敗れ、蝦夷が大王になったということなのでしょうね。

 

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