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「塙」って?80 武蔵野台地の端(はな)69 世田谷郷土資料館4

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2017.8.20 「塙」って?80 武蔵野台地の端(はな)69 世田谷郷土資料館4
 
荏原台古墳群や多摩川台古墳群や野毛古墳群など、世田谷には古墳や遺跡が多いようだと漠然と思っていたのですが、資料館で「世田谷区は都内でも有数の遺跡密集地で、3万年前から近世までほぼ全時代の遺跡が区内全域に分布している」ということが分かりました。
 
先月、三宿城址と烏山川の地形に興味を持って行ってみてから、
 
そのつながりで世田谷の地形と歴史が面白くなってきたのですが(^o^)、人類が日本に住み始めてから3万年の間の遺跡が途切れることなく密集していて、それらから人類の足跡と歴史の因果関係を辿ることができるから面白かったのですね\(^o^)/。
 
そこで、世田谷のどこにどんなものがあるのか見てみようと思い、資料館で「世田谷区歴史・文化財マップ」を購入してきました(^o^)
 
世田谷区歴史・文化財マップ
 
イメージ 1

 
このマップを見ていたら、「奥沢城址」があったので、あれ、ここにも城跡があったのか、これは誰のお城だったのだろう?と調べてみると、「世田谷城の出城として吉良氏によって築かれた平城」と言われているのだそうです。
 
考えてみれば当然ですよね(^o^)。世田谷郷は二百数十年にわたって吉良氏の領地だったのですから、ここに吉良氏以外の人が勝手にお城を造れたはずがありません。「奥沢城は大平氏の城であった」と記されているものもありましたが、大平氏は吉良氏の家臣で、奥沢城を預かる城代だったのでしょう。
 
そういえば粕谷八幡にも、粕谷を支配していたのは粕谷氏で、粕谷氏が粕谷八幡を造ったと記されているものがあったのですが、この粕谷氏も吉良氏の家臣で粕谷城を預かる城代だったのだろうと思います。粕谷城の城代となって粕谷に住んだので「粕谷の○○」を名乗って「粕谷氏」なったのかもしれません。
 
粕谷に八幡宮を造ったのも粕谷氏ではなく、領主の吉良氏でしょう。この当時、八幡神は領主の吉良氏の氏神だったのですから、吉良氏の一族以外の人が八幡神社を造ることができたはずはありませんから(^o^)


粕谷八幡宮
イメージ 2

イメージ 3


 
世田谷七沢八八幡には奥沢の八幡はありませんでしたが、吉良氏は奥沢にも出城(徴税のための支所?)を造っていたのですね。
 
奥沢城が吉良氏の出城だったのであれば、吉良氏はここにも八幡神社を造ったのではないか?と考えて探してみると、八幡神社は見つからなかったのですが、奥沢城(現・浄真寺)の北側に八幡中学校がありました(^o^)。この校名は、ここに奥沢城の八幡神社があったからなのではないかと考えて調べてみると、やはりそうだったようで、八幡神社はここから奥沢駅の近くに遷されて、現在は「奥沢神社」になっているということが分かりました(^o^)
 
奥沢城の跡地は今は九品仏浄真寺になっているのですが、ここには当時の土塁が残っていて「奥沢城址」の碑もあるそうなので、奥沢城の地形と土塁を見てみようと行ってみることにしました(^o^)
 
九品仏浄真寺には以前行ったことがあるのですが、当時は世田谷の歴史もそこが城跡だということも全く知らなかったので、「お面かぶり」行列の説明を見て、鎌倉の御霊神社の「面掛行列」のようなものなのかな?お寺も神社も同じようなことをしているのか・・・・と的外れなことを考えただけで、「奥沢城址」の碑にも土塁にも全く気が付かなかったのですよね<(_ _)>
 
ところで、昨日は水不足になっていた関東も激しい雷雨に見舞われたため、花を開いて頭が重くなっていたリコリス・インカルナータは倒れてしまいました<(_ _)>
 
この夏は毎日のようにどこかが雷雨や豪雨に見舞われて、冠水や浸水の被害が出続けているのですよね(T_T)




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