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「塙」って?25 武蔵野台地の端(はな)16 豊島郡衙跡

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2017.6.21 「塙」って?25 武蔵野台地の端(はな)16 豊島郡衙跡

 

8世紀代になると、武蔵国豊島郡の郡衙がこの武蔵野台地の端(はな)の、飛鳥山公園の南東500mにある現在の滝野川公園周辺に置かれたのだそうで、ここからは郡衙と推測される奈良・平安時代に造られた建物の跡が発掘されているそうです。


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滝野川公園、滝野川体育館、地震の科学館(防災センター)、消防署などがある一帯は、先土器時代から近世にわたる遺跡が出土している「御殿前遺跡」なのだそうです。ということは、先土器時代からここには人が住んでいたということではありませんか\(^o^)/。それならこの一帯には縄文中期ばかりではなく、先土器時代の貝塚も、縄文草創期の貝塚も、早期や前期の貝塚もあるはずですよね。その人達だって貝を食べていたのですから(^o^)

 

御殿前遺跡 

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古墳群があった飛鳥山周辺には、中世には豊島氏の飛鳥山城が、その南東にある平塚神社には平塚城があったようで、滝野川公園周辺は明治26年~昭和55年まで農業技術研究所があったのだそうです。そういえば、飛鳥山の近くには「旧醸造試験所」の跡地もありました。

 

平塚城伝承地

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農業技術研究所の記念碑
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貝塚があり、古墳時代には古墳が造られ、律令時代には郡衙が置かれ、中世には城が造られ、近世には国の施設や旧渋沢邸・旧古河邸など財閥の邸が造られ、現在は公園や公共施設が造られている武蔵野台地の端(はな)のここは旧石器時代からずっと人が住み続けていた場所だったのです。

 

旧古河邸といえば、旧古河邸の北側を通っている日光御成道(現・本郷通り)は、旧古河邸に沿うようにここで大きく南に曲がって霜降橋商店街を通って本郷追分に向かうのですが、この道には川も橋もないのになぜ「霜降橋」なのだろう?と私は通るたびに疑問に思っていました(^_^.)

 

先日「西ヶ原貝塚」を探しに行ってみたら、貝塚は旧古河邸の西にあって、ここから南に向かって土地が低くなっていき、坂の下は「谷戸」という地名で、その先が霜降橋であることが分かりました。それではここには川が流れていたということではありませんか(^o^)


そこで、「霜降橋」を調べてみると、今は暗渠になっているけれど、ここには谷戸川(藍染川)が流れていたということが分かりました(^o^)。やはり川も橋もない所に「谷戸」や「霜降橋」などという地名が付けられることはなかったのです(^o^)

 

旧古河邸は、高低差のある南斜面の上の本郷通りの高さに邸とバラ園があり、斜面の下は日本庭園になっていて大きな池があるのですが、ここも武蔵野台地の端(はな)のハケの地形を利用した庭園だったのですね。

 

地形を見ると、町の成り立ちや変遷がよく分かります。江戸時代には、沖積低地にはまだ海の跡が多くの川や川の周辺の低湿地として残っていたので、高燥な台地の上は大名屋敷や武家地や寺社地とされ、台地の下の低湿地帯が「町屋」とされて、江戸時代の庶民は狭い所にひしめくようにして暮らしていたようです。高台の旧古河邸と台下の谷戸川(藍染川)沿いの商店街はその名残のようですね(^o^)

 

そういうわけで権力者が住んでいた高燥な地が「高級住宅地」になっていたわけですが、その後さらに海退が進んで土地が乾き、河川も改修されて以前の川の周辺の低湿地はジメジメした湿地ではなくなったうえ、その先に水田や海岸の埋め立て地も広がったので、人々は平らで暮らしやすく、交通が便利で商店や飲食店やコンビニや娯楽施設などがある低地に住むようになり、かつての「高台の高級住宅地」はネームバリュー以外には魅力がない不便な場所になってきたということのようです(^_-)

 

かつては景勝の地だった台地の端(はな)の高台から見える景色もビルばかりになってしまっていますしね<(_ _)>

 

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