2017.5.23 塙って? ひたちなか市武田の「塙」
地図や地形図を見ているうちに、同じ地名の付いている所は地形に共通性があるということや、地名は地形から来ていることが多いようだということが分かって来て、地名から今とは違っていた古代の地形を推理することができるようになってきました(^o^)。
↓は4.25にpcat2sさまから戴いたコメントですが、
茨城県には「塙」という地名も苗字も多いですね。鹿嶋にも塙という地名がありますし、現在の鹿島神宮の宮司も塙鹿島家のようです。笠間稲荷の宮司は明治初年に鹿島神宮より迎えられたようで、同じ塙鹿島家(中臣鹿島連)かなと思います。(その辺は笠間稲荷のホームページに書いてありました)ちなみにひたちなか市武田の湫尾(ぬまお)神社のあるところも塙という地名で、中臣氏の勢力が伸びていたところで武田が甲斐に流罪になるきっかけを作ったようですね。
私は「塙」という地名があることを知らなかったのですが<(_ _)>、「塙」が地名で関東のあちこちにあるのであれば、「土偏+高」の「塙」とは小高い地形を表しているのかもしれないと考えて、鹿嶋とひたちなか市武田の「塙」がそういう地形なのかどうかを調べてみました。
関東平野は奈良時代にはまだ大部分が海で、その後も海が退いた跡は江戸時代や、場所によっては戦中・戦後に食糧増産のために干拓されるまで、湖沼や湿地だったようですから、「塙」とは、その地名が付けられた当時は海や湖沼や湿地に面した小高い場所のことだったのではないだろうか?と考えたのです(^o^)。
実は、2010年に湫尾神社と武田氏館に行った時、そこが小高い台地の上で、台地の下は那珂川まで続く平らな水田地帯になっているのを見て、ここは台地の端(はな)で、「湫尾(ぬまお)」は「沼尾」だったのではないかと思ったのですが(^o^)、そこが「塙」という地名だったのですね。
武田館跡と湫尾神社の森と海の名残(?)の武田溜(稲荷谷津)
右側の高い所が湫尾神社の森で、左側の平坦部が武田館があった所
城館は、元はスリバチ山と呼ばれていた湫尾神社から続く標高20mの武田台地の南端にあったのだそうですが、このスリバチ山は昭和43年に常磐線の那珂川鉄橋かけかえ工事の際に鉄道敷に利用するために崩されてしまって現在は平坦になっているそうで、西側の山もそれ以前に山砂利を採るために削られて平らになっているそうですから、昔の地形は「塙」という古い字名にしか残っていないようです<(_ _)>。
湫尾神社の北側にあった現在の武田氏館を、私は元の城館の跡に建てられたものだと思っていたのですが、そうではなく、武田氏の城館は神社の南東のこの台地の端(はな)にあったのですね。
地図には「塙」という地名は載っていなかったのですが、これは「字名」で、字西塙(武田502)には「西塙遺跡」があるそうです。字名には古代の地形が分かるものが多いのですが、古い地名や字名は、地元の資料館の地図でないと普通の地図では分からないのですよね~<(_ _)>。
ここまでの実地踏査で、遠浅の海に面した舌状台地の縁は古代人が最も好んで住んだ場所で、集落の跡や貝塚があることが多く、弥生人が好んで古墳を造った場所でもあり、中世には武士が城を造っていた場所だということが分かって来たのですが、この「西塙遺跡」からも旧石器時代や縄文時代の遺物が出土しているそうですし、館跡の先端部には直径10m、高さ5mの円墳と思われる塚もあったそうです\(^o^)/。