2017.5.11 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?20
またまた鹿島神宮の宮司からはどんどん離れていってしまいましたが、4.26の続きに戻ります(^o^)。
鹿島神宮67代宮司の鹿島則文氏は、46歳の時伊勢神宮大宮司を拝命して15年間伊勢神宮の宮司を務めたのだそうです。あれ?どうして鹿島神宮ではなく伊勢神宮なのだろう?と思ったのですが、伊勢神宮の祭主家・大宮司、鹿島神宮大宮司、香取神宮大宮司、枚岡神社社家、気比神社宮司、平野神社・梅宮神社・吉田神社宮司家、春日大社社家、松尾大社社家など全国にわたって現在も有名かつ繁栄している神社の多くには中臣氏の累孫が関係しているのだそうです。
中大兄のクーデターへの協力と成功で一等功臣となり、中大兄(天智天皇)が皇位に就くと太政官の上に立つ神祇官となった鎌足は、全ての貴族の頂点に立ったようですから、「有名かつ繁栄している神社の多くに中臣氏の累孫が関係している」というのは、それらの神社を祖廟として祀っていた有力氏族と婚姻関係結んだり、神官として子弟を送り込んだりしていたということかもしれませんね。この全国にわたって有力な氏族の間に勢力を張り巡らした中臣氏とは、多分鹿嶋の「中臣姓・鹿島氏」ではなく、朝廷で神祇官となっていた鎌足の子孫の「大中臣氏」なのでしょう。
中臣鹿島連姓鹿島氏の系図は、
【1】天児屋命―【2】天押雲命―【3】天多禰伎命―【4】宇佐津臣命―【5】大御食津臣命―【6】伊香津臣命―【7】梨迹臣命―【8】神聞勝命
だそうですが、崇神天皇の時代に初代宮司になった神聞勝命が8代目とされていますから、天児屋命から梨迹臣命までの7人は架空の人物か、実在だとしても鹿島神宮の宮司ではなく、祖先である三笠神を祀っていた「跡宮」の祭祀者だったのかもしれません。
この三笠神は、鹿島神宮が造られた時に本殿の近くに遷されたため、元の宮は「跡宮」となっているのですが、初代の天児屋命が「天孫に従って179万年前に高天原から天降って来た」というのはもちろんウソで、中臣氏の先祖は天津族が東征して来る前から鹿島にいたのです(^o^)。
三笠神が祀られていた神野の「跡宮」
↑の系図には、「鹿嶋市に鎮座する神宮の宮司家・塙鹿島家の家系を『中臣鹿島連姓鹿島氏系譜』(鹿島則良氏所蔵)によって略記すると・・・」とあったのですが、「中臣鹿島連姓鹿島氏」と「塙鹿島家」がどういう関係なのかが私はよく分かりません<(_ _)>。
「中臣鹿島連姓鹿島氏」とは、建長年間まで中央から補任されていた鎌足の子孫の大中臣氏のことで、「塙鹿島家」とは、大中臣氏と交代で大宮司を務めていた鎌足以外の神聞勝命の在地の子孫の中臣氏だということでしょうか?大中臣氏以外の中臣氏は神宮のある鹿島山ではなく「塙」に住んでいたということなのかな~???
でも、鹿島神宮の宮司さんはみな「塙氏」ではなく「鹿島氏」を名乗っていたようですから、これは「近世に塙氏を称した」というのが間違いで、塙鹿島家とは「塙(に住んでいる方)の鹿島氏」だという意味なのでしょうか。
水戸市の常磐神社の宮司をされていたという鹿島則幸氏の写真が↓にありました(^o^)。この則幸氏は、67代則文氏のお孫さんだそうです。
というわけで、鹿島神宮の宮司は崇神天皇以来ずっと神聞勝命の子孫の「中臣姓鹿島氏」であって、鹿島城主だった「平姓鹿島氏(常陸大掾氏)」の子孫や、その家臣だった塚原卜伝の実父や養父が鹿島神宮の宮司や神官になったことはないようです(^o^)。