2017.4.26 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?10
鹿島神宮の宮司さんは中臣姓の鹿島氏なのか、塙氏なのか調べていたら、第67代目宮司・鹿島則文(かしまのりぶみ)氏に関する記事がありました。この方は明治34年に63歳で亡くなったのだそうですから、鹿島神宮の宮司さんは明治34年には「鹿島氏」であって、明治8年に「塙氏」になったのではないようです。
そのお孫さんは鹿島則幸氏で、この方は水戸の常磐神社の宮司をされていたそうですから、鹿島氏はずっと鹿島氏であって、「塙氏」になったことはないようです(^o^)。
wikipediaによれば、鹿嶋の「中臣姓鹿島氏」は近世に「塙氏」や「羽生氏」を称したそうですが、近世とは「安土桃山時代と江戸時代を合わせた時代」とするのが一般的だそうですから、「塙氏」はその頃に「塙」を名乗るようになった中臣姓鹿島氏の分家だということでしょうか?
「塙」も地名が鹿嶋にあるそうですので、どの辺りかと探してみたら、鹿島神宮の南でそこには塙神社もありました。この神社が何を祀っているどんな神社なのかは分かりませんでしたが<(_ _)>、近世に塙で「塙氏」を名乗るようになった分家が自分の敷地に造った祖廟だったのではないでしょうか。鹿島神宮の宮司は本家の鹿島氏の嫡流が継ぎ、「塙氏」となった分家の子孫の一人が明治の初めに笠間稲荷の宮司になったということかもしれませんね(^o^)。
すると「茨城県神社庁 庁長 中臣鹿島連瑞比古」氏は笠間稲荷の「塙瑞比古」氏ではなく、鹿島神宮の鹿島瑞比古氏だったということになるようですが、同じ時期に「瑞比古」という文字まで同じ同名の人が鹿島と笠間にいたということでしょうか?
鹿島則文氏は第67代目宮司ということで、鹿島神宮には歴代の宮司さんの系譜がしっかり残っているようですから、聞いてみることができればすぐに分かるのでしょうけれど(^_-)。
5世紀の初めに鎌足の祖先の鹿島の神聞勝命(かむききかつのみこと)が崇神天皇から神領を貰って鹿島神宮の祭祀者になってから明治34年までに67代ですから、現在の宮司さんは70代か71代くらいでしょうか。
高麗神社の現在の宮司さんは、670年頃の初代の高麗王若光から60代目の宮司さんですが、
鹿島神宮の初代はそれより270年くらい前の崇神天皇の時代の神聞勝命のようですから、そちらのほうから考えてみても70代前後と思われます。鹿島神宮の宮司さんの系譜には125代の歴代天皇や84代の出雲大社のような水増しはされていないようですね(^_-)。