2017.4.11 常陸大掾氏と多気氏2
2007年に、筑波山神社まで直線で登るという「茨城険道139号」の「つくば道」を実際に見てみたいと思って出かけて行った時、北条の町の地図に「多気太郎の墓」があったのですが、当時は知識がなかったので、「多気太郎」が誰でいつ頃の人なのか、なぜ北条に墓があってそれが史跡になっているのか全く分からず、地元出身の政治家か岡本太郎のような有名人なのかな?などとトンチンカンなことを考えてしまいました(^_^.)。
その後「多気太郎」とは多気山にあった多気城の城主だった平義幹のことであり、「常陸大掾」であったことや、「常陸大掾」とはなんなのかというようなことがだんだんに分かってきたので、2011年に改めて多気太郎のお墓を探しに出かけてみました(^o^)。
多気太郎の墓
多気太郎が建立したという無量院へ行ってみると、その生涯が刻まれた石碑がありました。
多気太郎とは?
碑文には「名君の誉れ高く」と記されていましたが、地元では今も「たきたろさま」と呼ばれて大事にされているそうです。
当時、常陸国で大きく勢力を広げていたのは常陸大掾の平氏の一族で、常陸の南部から下総を支配していた平将門は、「新皇」を名乗って独立国を作ろうとした朝敵だとされていますが、最上位にランクされた大国で「親王任国」であり、虫麻呂が「常世の国」と記した常陸国は、朝敵となりうるほど豊かな所だったのですね(^o^)。
でも、現地に残されているものから歴史の因果を辿ってみると、この事件の真相は「日本三大悪人の将門が起こした謀反」とはかなり様相が違うようで、現地には、前常陸大掾・源護の3人の息子たちが将門を襲ったのは、この3人が将門の妻に懸想して奪おうとしてのことだったと記されていたので、エッ??と思ったのですが(^_-)。
桜川市の后神社
将門の墓と伝わる御門(みかど)御墓
この時、国香の息子の貞盛と同盟を結んで将門を攻めたのが下野の藤原秀郷だったのですから、小田城の八田知家(本姓・藤原)は、やはり秀郷の子孫のようですね。
日本三大悪人の一人とされる「朝敵将門」像は、一族間の領地争いや権力争いが拡大していった結果、成り行きでそうなってしまったか、勝った方が将門を極悪人に仕立てて自分たちがしたことを正当化したということなのかもしれません<(_ _)>。将門は国府を襲撃したとされていますが、襲撃したのは国府ではなく、国府にいた一族だったのでしょうし。
アトリ
日本には冬鳥として秋にシベリア方面から渡来するスズメ目アトリ科アトリ属の小鳥ですが、今年は毎日同じ場所にやって来ていたのに春になって見かけなくなったと思ったら、一羽が窓の下に落ちていたそうです(T_T)。
仲間とはぐれてしまったのか、シベリアに帰ることのできなかったこの鳥は、雨が上がったらサンシュユの木の下に埋めてあげましょう。