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藤原氏・八田氏・小田氏

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2017.4.8 藤原氏・八田氏・小田氏

 

八田氏は小田に来て「小田氏」になったわけですが、それでは八田氏になる前は何だったのかというと、宇都宮でお坊さんになっていた人もいたようですが、ずっと遡るとその大元は藤原北家ですから「本姓は藤原」だったのですね。知家の姉が頼朝の乳母になっていたので頼朝の信任が厚かったということでしょうか(^o^)

 

小田氏系図 

イメージ 1

知家の三男の知基は(茂木)となっていたので、あれ?茂木は茨城南部ではなく栃木では?と疑問に思ったのですが、知家の兄の朝綱は(宇都宮氏)となっていますから、知家の本家の領地は栃木の宇都宮だったのでしょう。すると知家は藤原秀郷の子孫でしょうか(^o^)。これはまだ確認してはいませんが。


遠くへ行った人や出家した人もいるようですが、これは、長男以外は他家へ養子に出されたり出家させられたりしたからでしょうか。

 

小田城に向かう途中に「大塚家住宅」があったのでそこへも行ってみたのですが、中にいた方がいろいろ説明してくださったので、この家の方なのかなと思ってお聞きしてみると、地元の太田さんという方でご先祖は八田知家の家臣だったとのことでした。

 

そのご先祖は、元は「大田」だったのだそうですが、八田知家が小田に来て「小田氏」になった時、家臣である自分が「大田」を名乗るわけにはいかないということで、点を一つ付けて「太田」を名乗ることにしたのだそうです(^o^)。やはり「姓」は初めからあったものでも、固定していたものでもなかったということが良く分かる具体的なお話だったのですが、地元の方からは資料には無い思いがけないお話や面白いお話を聞けることがよくあるのですよね\(^o^)/。

 

「本姓」と言えば以前、

 

日本人のほとんどは、本姓は「源」「平」「藤原」です。

その他も、ほとんどが皇孫なので、結局、日本人は、先祖を遡ると、神武天皇と藤原鎌足に辿りつくことになります。

 

というコメントを戴いたことがあるのですが、これは全くの誤解で、日本人がみな神武天皇と藤原鎌足の子孫だなどということはあり得ません。明治になるまで庶民、つまり大部分の日本人には「本姓」はもちろんのこと「姓」さえ無かったのですから、本姓から遡ることなど不可能ですし、神武天皇は架空の人物なのですしね。祖先に遡る方法があるとすれば、DNAの解析でしょうか(^o^)

 

では、なぜ日本人はみな神武天皇と藤原鎌足の子孫だというような誤解が生まれたのかというと、文献などに姓名が残っているのは姓や本姓を持っていた支配層の人達だけなのですが、古代に藤原氏が「出自(本姓)が源・平・藤・橘以外の者は支配層に入れない(官位に就くことはできない)という仕組みを作り上げていたからで、そのためそれ以外の人達は、官位に就くためには大金を積んで「本姓」を買わなければならなかったからなのです。

 

例えば秀吉は黄金を積み上げて藤原北家の近衛前久の猶子にしてもらい「本姓・藤原」になることで関白になれたのですし、家康は京商人の茶屋四郎次郎を通して源氏の系図を買い「本姓・源」になったことで三河守になれたのですが、秀吉はその後、「父も母も宮中に仕えていた」という系図まで創ってしまったそうです(^o^)

 

後にその仕組みが崩れてしまってからも、官職の申請書類(?)には形式として源平藤橘のいずれかの本姓を書かなければならないことになっていたそうですから、それをもとにすれば、みな「源・平・藤・橘」の子孫でそれ以外の子孫はいないということになるわけですね(^_-)

 

この慣習は明治まで残っていたようで、明治の元勲になった人たちも藤原朝臣永敏(大村益次郎)・藤原朝臣利通(大久保利通)・源朝臣有朋(山縣有朋‎)というように本姓(?)を記していたようです(^o^)

 

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