2017.3.27 「人間が神になる話」3
第十一代顕如が、正親町天皇から門跡を勅許されて人間から神になったのは永禄2年(1559年)のことで、桶狭間の戦いの前年のことだったそうですから、信長が台頭して来た頃には、顕如はもう僧侶でありながら神になっていたのですね(^_-)。
当時本願寺の趨勢は絶頂に達していて、いかなる大大名も本願寺に諸国から上納されてくる金穀の莫大さには及ばなかったそうで、本願寺はその富力を利用して門跡資格を得、大阪湾を見下ろす上町台地の北端(現在の大阪城の場所)に堅固な城塞都市を築き、瀬戸内海などの主要な水運を押さえて全国に組織を持つ大勢力になっていたのです。信長が11年という長い年月をかけて戦ったのはそういう相手だったのですから、やはり以前考えたように宗教を弾圧するための戦いではなかったのです。
1566年に正親町天皇から御料所の回復と誠仁親王の元服費用の拠出を求められた信長は、「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答しただけで、1569年に正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられた時も、返答はせずに事実上無視したのだそうです。
自身が「神になる」と言ったという信長は、やはり「神」とはいかなるものかがよく分かっていたのでしょう(^o^)。
そしてこの戦いは、最終的には『村上海賊の娘』に描かれたような信長と石山本願寺に立てこもった一向宗の宗徒との戦いになっていったわけですが、その戦いと、今とは全く違っていたその頃の大阪の地形はこの劇画調の本に詳しく記されていました(^o^)。
16世紀には上町台地の下は、まだ海に続く砂地や葦原の湿地帯だったのです(^o^)。
去年は、真田丸の位置がこれまで言われていた位置よりも300m西にあったことが判明したということで、真田丸は北・東・西と崖になっていて周りからは一段高くなった場所に造られていたことなど、その付近の当時の地形が分かってきているようです。
地形は時代によって大きく変化しているのです。大阪城が建つ上町台地は20m位あるようですが、周辺は4~5m位のようですから、16世紀の海面は、現在より4~5mは高かったのではないかと思います。上町台地の北端の東斜面には森ノ宮貝塚があって、縄文時代には海辺だったことが分かっているわけですし、東征の頃は生駒山の麓の孔舎衙(くさか)まで船で行けたわけですしね(^o^)。