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穂高神社と安曇野147 安曇族(海人族)85 在原業平10

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2016.12.8 穂高神社と安曇野147 安曇族(海人族)85 在原業平10

 

奈良・平安時代の天皇の即位や退位は全て藤原氏に牛耳られていたようですから、桓武天皇から仁明天皇までの6人の天皇が、自分の子を皇太子にしなかったのは、もし藤原氏の気に入られなければ息子が廃太子にされたり殺されてしまったりするのではないかと憂慮したからだったのかもしれませんね~<(_ _)>

 

例えば、仁明天皇の皇太子になったのは淳和天皇の第二皇子の恒貞親王なのですが、淳和上皇と恒貞親王は権力闘争に巻き込まれることを憂慮して、度々皇太子の辞退を申し入れていたのだそうです。これは、恒貞親王は皇太子にも天皇にもなりたくなかったということであり、父の淳和上皇も息子を皇太子や天皇にしたくなかったということですよね。

 

けれど恒貞親王は、嵯峨上皇と仁明天皇に慰留されて辞退することができなかったそうで、案の定嵯峨上皇が崩御するとまもなく、藤原氏が他氏を排斥するために起こした陰謀・承和の変によって廃太子とされ、出家せざるをえなくなったようです。

 

出家して法号を恒寂と称し、真如法親王から灌頂を受けて嵯峨大覚寺の初祖となっていた恒貞親王は、元慶8年(884年)に陽成天皇を退位させた藤原基経が即位を打診してきた時、これを拒絶したのだそうです。

 

淳和天皇の皇子だった恒貞親王は、仁明天皇の皇太子になり(され?)、藤原氏の都合で廃太子にされて出家し(させられ?)、今度は妹の子を天皇にしたくないという基経の都合で即位を打診されたのですから、もうこれ以上藤原氏に利用され、翻弄されるのは真っ平だと思ったのではないでしょうか。もし打診を受けて天皇になったとしても、基経の都合次第でいつ殺されたり退位させられたりするか分からないわけですものね<(_ _)>

 

この恒貞親王が灌頂を受けた真如法親王とは、平城天皇の皇子で嵯峨天皇の皇太子となっていた高丘親王のことだそうですから、阿保親王の異母弟であり、在原業平の叔父に当たるわけですね。高丘親王は、藤原北家と式家の権力争いの「薬子の変」で藤原北家の冬嗣によって廃太子とされて出家し、空海の弟子になって真如と名乗り、高野山に親王院を開いて阿闍梨になっていたそうです。

 

49人もの子どもがいた(?)という嵯峨天皇も、なぜか自分の子を皇太子にはせずに、兄の平城天皇の子の高丘親王(母は伊勢継子)を皇太子にしていて、高丘親王が藤原氏によって廃太子にされてしまうと今度は異母弟の大伴親王(淳和天皇・母は藤原氏)を新たな皇太子にしているのですが、これは藤原氏の圧力だったのでしょうか?それとも自分の子供達は藤原氏に殺されるか、出家させられてしまうかもしれない皇太子にはしたくないということだったのでしょうか?

 

嵯峨天皇が大勢の子供たちを臣籍降下させて「嵯峨源氏」にした理由を、学者さんたちは「皇子皇女が多数いて、その生活費が財政圧迫の原因となったからだ」としていますが、ひょっとすると臣籍降下させることによって皇位継承権を失くし、皇嗣問題で藤原氏に利用されたり殺されたりすることを避けようとしたのかもしれませんね<(_ _)>

 

晴明の相棒の源博雅

 
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安倍晴明(9211005)と同時代を生きた源博雅(918980)は、醍醐天皇の孫で管弦の名手だったそうですが、二人が親しかったという史実はないようです(^_^.)

 

でも、この二人のキャラクターが魅力的だったから小説『陰陽師』は面白かったのですよね。想像でこういうオハナシを創ってしまう小説家や、その想像の世界を実際の絵にしてしまう漫画家って本当にスゴイなと思います(^o^)

 
 

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