2016.12.6 穂高神社と安曇野145 安曇族(海人族)83 在原業平8
清和天皇の譲位を受けて9才で即位した陽成天皇は、暴虐であるとして基経によって17才(満15才)で退位に追い込まれたのだそうですが、この退位の本当の原因は15才の少年の暴虐ではなく、母の高子と高子の兄で摂政だった基経の不仲(権力闘争)だったようです。
妹の高子が清和天皇の女御になって貞明・貞保の二人の親王を産んでいたのに、基経は自分の娘を二人も清和天皇に入内させて自分の孫の誕生を望んだのだそうですから、高子が腹を立てたのも無理はないと思いますが(^_-)、王や天皇にたくさんのお后がいたのは、必ずしも本人の望みや好みだったともいえないようで、押し付けられて断れないこともあったようですね。
「娘(女)」は王家の血筋を得、権力に近づくための道具だったようで、その娘でうまくいかなければ、実の妹でも姪でも従姉妹でも養女でも、次々に送り込んで・・・というような場面は韓国歴史ドラマにもよく出てきていました。
もし『伊勢物語』が記していることが真実なのであれば、高子は良房の天皇の子を得るための道具として業平との仲を裂かれ、女御として9才年下の清和天皇の後宮に送り込まれたということだったのかもしれません(T_T)。
基経は良房の甥で、良房の養子となったのだそうですが、良房の死後は、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたって朝廷の実権を握り続けたそうですから、それなら基経と高子の不仲とは、養子の基経(の実家)と実子の高子(の実家)の藤原氏内部の権力争いだったということでしょうか。奈良時代には北家・式家・南家・京家が陰謀に次ぐ陰謀で潰し合いをし、北家が一人勝ちで生き残ると今度は北家の身内同士で権力争いを始めたのですね<(_ _)>。
そんな争いに嫌気がさしたのか、何か陰謀や恫喝があったのかは分かりませんが、清和天皇は27才で9才の貞明親王に生前譲位してしまい、基経が幼い甥の貞明親王(陽成天皇)の摂政になったそうですが、882年に陽成天皇が元服した頃から両者の関係が険悪になっていったのだそうです。たぶん成長し、元服した天皇が基経の言いなりにはならなくなってきたからなのでしょうね。伯父で摂政の基経と対立していた母の高子(やその実家)に指図されていたのかもしれませんが。
どんなに理不尽なことを要求されても、王は母(皇太后)の命令や言い分に逆らえない場面も韓国歴史ドラマにはよく出てきて、私はいつも「親にも貴族にも逆らうことができず、王妃まで周りに勝手に決められてしまう朝鮮の王様ってかわいそう」と思いながら見ていたのですが・・・・
15才で暴虐の汚名を着せられて退位させられた貞明親王(陽成天皇)は藤原氏内部の権力争いの犠牲になったということのようです(T_T)。なるほど、この時代には藤原氏を恨む怨霊だらけになっていたわけですね~<(_ _)>。
実は私が『陰陽師』の小説と漫画を読んだのは、風水と陰陽道に興味を持ったからで、こんな権力闘争の歴史は全く知らず、興味もなかったので、時代背景や登場人物の人間関係などがよく分からなかったのですよね<(_ _)>。平安の闇とか、怨霊とか、百鬼夜行とか、道真の祟りとか、遅まきながら今になってやっとそういうことだったのか、と納得できてきたところです(^_-)。
菅原道真の怨霊(^o^)
道真が怨霊になっていたことも、学問のカミサマのはずの道真がなぜ怨霊になったのかも、この本を読んだ時の私は知らなかったのですが<(_ _)>、この本を読んだのはいつだったっけ?と考えて、発売されてすぐに購入したはずと奥付を調べたら、平成11年発行になっていました。今年は平成28年で、もうすぐ29年になるのですよね。