2016.12.3 穂高神社と安曇野143 安曇族(海人族)81 在原業平6
この期間に即位した光仁天皇から醍醐天皇までの天皇と、その在位期間と、即位の状況を一覧表にしてみました。
天皇 在位 (年数) 即位の状況
桓武 781~806(25年) 光仁の譲位により即位
嵯峨 809~823(14年) 平城の譲位により即位
文徳 850~858(8年) 仁明の譲位により即位
光孝 884~887(3年) 仁明天皇の第三皇子 藤原基経が陽成を
退位させ55歳で即位させる 母は藤原沢子
省となっていたが藤原基経によって皇籍
即位。母は藤原胤子
でも、即位にしても、譲位にしても、退位にしても、光仁天皇以降はみな藤原氏の圧力によるものであって、自民党の議員さんが言うような「天壌無窮の神勅」とは全く関係ないようですね(^_-)。もし神勅によるものであったなら、譲位して勝手に天皇を止めたり、藤原氏が天皇や皇太子を立てたり、殺したり、退位させたりできたというのは矛盾していますよね。「神」というのは権力者が都合のいい時だけ利用するもののようです。
死ぬまで天皇だったのは、この表の中では桓武天皇・嵯峨天皇・文徳天皇・光孝天皇の4人だけですが、まだ31才だった文徳天皇は、死ぬまで天皇だったというより、在位中に暗殺された可能性が高いようですし、光孝天皇は、即位した時当時としてはすでに高齢だったのですから、実質の終身天皇は桓武天皇と嵯峨天皇だけのようです。この二人の天皇は藤原氏の血を引いていないのに在位期間が長いのは、藤原氏の圧力に屈しないだけのタフさか、藤原氏の陰謀を上回る頭脳や力を持っていたということでしょうか(^o^)。
藤原基経によって皇位に就けられた光孝天皇は、即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、子孫には皇位を伝えない意向を表明していたそうですが、なんだかこの間の経緯を見ると、皇太子や天皇を巡って権力争いをしていたのは藤原氏で、天皇は「皇太子」というババは我が子以外の王族に押し付け、「天皇位」というババは早く次の人に渡してしまおうとしていたようにも見えてきてしまいませんか<(_ _)>。