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穂高神社と安曇野140 安曇族(海人族)78 在原業平2

2016.11.29 穂高神社と安曇野140 安曇族(海人族)78 在原業平2

 

「藤原氏の陰謀(称徳天皇の遺詔偽造)によって天皇になった光仁天皇」の皇太子は他戸親王(天武天皇の子孫)でしたが、他戸親王は藤原氏の陰謀(呪詛の冤罪)で廃太子にされて殺され、代わりに藤原氏によって山部親王(桓武天皇)が立てられました。

 

「藤原氏の陰謀によって天皇になった桓武天皇」の皇太子は弟の早良親王でしたが、早良親王は藤原氏の陰謀(種継暗殺事件)によって廃太子にされて憤死し、代わりに藤原氏によって桓武天皇の子の安殿親王(平城天皇)が立てられました。

 

「藤原氏の陰謀によって天皇になった平城天皇」の皇太子は弟の神野親王(嵯峨天皇)で、嵯峨天皇の皇太子は平城天皇の子の高丘親王でしたが、高丘親王は藤原氏の陰謀(薬子の変)によって廃太子にされ、代わりに藤原氏によって式家の藤原旅子を母とする異母弟の大伴親王(淳和天皇)が立てられました。

 

「藤原氏の陰謀によって天皇になった淳和天皇」の皇太子は嵯峨天皇の皇子の正良親王(仁明天皇)で、仁明天皇は淳和天皇の皇子の恒貞親王を皇太子にしましたが、恒貞親王は藤原氏の陰謀(承和の変)によって廃太子にされ、代わりに藤原氏によって仁明天皇の皇子で左大臣藤原冬嗣の娘・順子を母とする道康親王(文徳天皇・藤原良房の甥)が立てられました。

 

「藤原氏の陰謀によって天皇になった文徳天皇」の第一皇子は惟喬親王で、文徳天皇は惟喬親王を寵愛し皇太子に立てようとしたそうですが、惟喬親王の母は藤原氏ではなく紀氏の出身だったため実現せず、藤原氏によって藤原良房の娘・明子を母とする第四皇子の惟仁親王(清和天皇)が生後8か月で皇太子に立てられたのです。


いったいこれのどこが「天壌無窮の神勅」に由来するものなのでしょうね?そもそもこの言葉は不比等が創ったものなのですから、「藤原氏の意のままだ」という意味なのであればそのとおりなのですが・・・・・・

 

惟喬親王の母は紀名虎の娘・静子で、在原業平の妻は名虎の息子・有常の娘だったそうで、業平と惟高親王には深い交りがあり、その様子は、『伊勢物語』の第八十二段の毎年二人が水無瀬(みなせ)にあった文徳天皇の離宮・渚の院に花見に行き、業平が「世の中に絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし」と歌を詠んだ話や、八十三段の雪の中、比叡山麓の小野の里に出家してしまった親王を訪ねて行く話などに残されていますから、業平の「東下り」の裏には、惟高親王を排除して生後わずか8か月の自分の孫を皇太子にしてしまった良房の陰謀や、紀氏(惟高親王派)と藤原氏(惟仁親王派)の立太子を巡る暗闘があったのでしょうね<(_ _)>

 

水無瀬付近 

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水無瀬神宮 
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ここは後鳥羽上皇の水無瀬離宮の跡だそうですから、文徳天皇の時代の離宮の場所とは違うのかもしれませんが。

 

この神宮の祭神は後鳥羽上皇で、この神宮は後鳥羽上皇の菩提を弔うために宮跡に造られた廟だと記されていますね。やはり「古代の地形から『記紀』の謎を解く」で推理したように、祭神とはニンゲンであり、神社とはその人を祀るために生前の宮跡に造られた廟だったのです\(^o^)/。

 

 

 

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