2016.8.7 穂高神社と安曇野51 志賀島と金印2
倭人は日常的に舟で日本海を行き来していたようだということについて、以前司馬遼太郎氏の本で、「島原や五島では昭和の初年まで、若い者は朝鮮まで手漕ぎの舟で小遣い稼ぎにタワシなどを売りに行っていた。そこまで力漕できるということが若い衆の名誉だった」という文を読んで、北九州と朝鮮半島を手漕ぎの舟で行き来するのは命懸けの悲愴な冒険ではなく、半ば娯楽を含んだ日常生活の一部だったらしいということに驚いたことがあったのですが、4~5000年前からつい100年くらい前まで、人々は手漕ぎの簡単な舟で往来していたのですね。
私はこの金印の「漢委奴國王」の文字は「かんのわのなのこくおう」と読み、奴国王が漢から貰ったものだと学校で教わっていたので、これまでそう信じていたのですが<(_ _)>、『穂高神社と安曇族』には、この「委奴國」には、奴国なのか、倭国なのか、「委奴=イト」と読んで伊都国なのかなど、様々な説があると記されていました。 え~っ!そうだったの??
伊都国は『魏志倭人伝』の頃に現在の糸島半島辺りにあったという国ですよね。でも糸島半島は、『魏志倭人伝』の頃には半島ではなく、水道で切り離された島だったはずです。そこで伊都国はどちら側にあったのだろう?と調べてみました。
糸島半島は、奈良時代にもまだ半島になってはいなかったようで、怡土(いと)郡と志摩郡に別れていたそうです。水道の北側の島が志摩郡で南側が怡土郡だったそうですから、「志摩」は「島」なのでしょうね。怡土郡が『魏志倭人伝』に記されている伊都国で、志摩郡が斯痲国だったのではないかと考えられているようです。
そこで『まぼろしの邪馬台国』にはどう書いてあったっけ?と探してみたら、「伊都国が福岡県の怡土郡だったことは疑う余地がない。」「元寇の時、この水道に船を通した記録があるので、怡土と志摩が完全につながったのはそれ以後のことであろう」と記されていました。奈良時代(8世紀)どころか、元寇の頃(13世紀)になっても、まだここは船が通行できるような海だったのですね(^o^)。
この水道の跡は、「現在でも地峡を歩いてみると、ジメジメした湿地帯が沼沢地と入り乱れて東西にながくのびており、最終陸化がきわめて新しいことがよく分かる」のだそうですが、宮崎氏がこの実地踏査をされたのは昭和40年頃のようですから、今もそうなのかどうかは分かりませんね<(_ _)>。ただでさえ海が陸になるなど地形はどんどん変わってきているのに、高度成長期の頃からはさらに人為的に丘は崩され、湿地は埋め立てられて宅地になってしまっているようですから。
私はこの本を読んだころ、邪馬台国について何も知識がなかったうえに九州の地名や場所が全く分からなかったので、地図で地名を探しながら読んだのですが、宮崎氏が記されたそれぞれの国の位置を本当に理解できたとは言えません<(_ _)>。でも、実地踏査による実証と、論理的な推理には「なるほどそうか」と納得することが多かったので、現地を知らない私には細かい点は理解できなかったとしても、宮崎康平氏の見方や考え方を理解することはできたと思います(^o^)。
私はこの本を読んで、それまで関東の地形で考えていた古代の地形に関する推理が間違っていなかったことを確信することができたのですが、宮崎康平氏と『まぼろしの邪馬台国』も、やはり「アカデミックな世界」からは無視され続けてきたようです(T_T)。「アカデミックな世界」というのは「非論理的な世界」のことのようですね。
伊都国の場所も、どう書いてあったのかもすっかり忘れてしまっていましたが、今読み返してみればきっともっと良く理解できるようになっているだろうと思います。私の「持ち合わせている知識」は2008年より確実に増えていますから(^_-)。