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千国街道と千国古道

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2016.6.2 千国街道と千国古道

 

地図を辿ってみると、根知谷の山口の関所から分かれて南西に向かい、大網峠を越えて姫川を渡り、姫川の西側を千国へ向かう道(オレンジ色の道)が牛方や歩荷が塩を運んだ中世の「塩の道」で、関所から山地をそのまま南に向かう道(緑色の道)が千国古道のようです。(この地図は右が北、左が南になっています)


イメージ 1

 

「山口」という地名から見て、根知谷を通って来た道はここから山道を登る道になるようです。この古道は険しい難所が多かったそうですが、奈良時代にはこの道が官道になっていたそうですから、この道が日本海への最短距離の道だったのでしょう。荷を積んだ牛が通れるような、距離は長いけれど古道に比べれば緩やかな西側の千国街道が拓かれたのは、大量の塩や海産物を運ばなければならなくなったからだろうと思います。ここにある「塩の道資料館」に行ってみればもっとはっきりしたことが分かったかもしれなかったのですが(T_T)

 

だから「薙鎌」を有し、御柱祭の前年に薙鎌神事を行うという中谷大宮諏訪神社は東側の古道の方にあり、運上塩(通行税)を徴収する千国番所や、牛方や牛馬の世話をしたという「小谷三宿(千国・来馬・大網)は西側の千国街道にあったのですね。

 

すると、「中谷大宮諏訪神社」が小谷村の「総社」で「大宮」になっていたのは、中谷の諏訪神社が奈良時代以前の、古道が拓かれた頃に造られた古い諏訪神社であるのに対し、千国街道の諏訪神社は西回りの「塩の道」が拓かれた中世以降に造られた新しい神社だったからのようです。千国街道の諏訪神社は中谷の諏訪神社を勧請して造られたということかもしれません。

 

中谷大宮諏訪神社 

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

中谷大宮諏訪神社の薙鎌は村宝になっていました。

 

こんな細かいことは、地域の資料や実地踏査でしか分からないのですが、疑問に思ったことを調べてみると、どんなことにも「なるほど、そういうことだったのか」と納得できる論理的な因果関係が必ずあるのです\(^o^)/。

 

けれど既存の歴史解釈は、地形の変化ということを全く考慮していない上、『記紀』や『古事記伝』信奉というバイアスのかかったつじつま合わせの解釈になっていて検証もされていませんから、私は疑問に思ったことは自分で実際に行って確かめてみなければならなかったのです<(_ _)>

 

立派な肩書きをお持ちの学者さんたちが、どのようにもっともらしくつじつまを合わせた説を開陳されていたとしても、もし因果関係を論理ではなく「・・・と考えればよい」というような形でしか説明していないのであれば、その説はその人の創った「つじつまを合わせるためのストーリー」であって、謎の多くはそうやって創り出されてしまったものなのですから、その謎を解くのは屋上屋を架すような「新たなつじつま合わせ」ではなく、もっと根源的な「なんでなんで」攻撃なのです(^_-)


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