2016.4.9 北の縄文遺跡群と世界文化遺産登録申請
日本のカミサマたちは、エジプトやギリシアやローマのカミサマたちのようにはるか昔に存在した過去の「文化遺産」ではなく、今も現役なのです(^o^)。
カミサマの子孫だと称する人たちは今もたくさん存在していますし、神社は観光客が見物に行く古代の神殿のような廃墟ではなく、どんどん大きく立派になり、「ご神徳」もどんどん付け加えられて、子孫以外の人達まで大挙してお参りに行くようになっているのですから(^_-)。
けれど論理的・科学的に考えるなら、天から降ってきたというアマテラスの孫のニニギノキコトや、その時随行して来たというカミサマ達が、人類の発生から現在までの人類史の中に入り込む余地は全くありませんし、天下りしたカミサマが途中からニンゲンになった可能性も全くありません。日本のカミサマは不比等が創ったオハナシなのです(^o^)。
このような荒唐無稽な『古事記』のオハナシに基づいた「日本の古代の歴史」は、当然のことながら世界史とは全く整合性がなく、人類史上の位置付けも意義も不明なのですから、「縄文時代の遺跡群」の世界文化遺産としての認定を望むのは無理がありますよね(^_-)。
認定を望むのであれば、世界の歴史とは矛盾している非論理的な旧来の歴史観から脱却して、「日本の縄文時代」を論理的に世界史や人類史の中に位置付け、その意味や意義をきちんと説明する必要があるのではないでしょうか。
常呂町や標津町に残る約8000年前からの縄文時代の住居跡は、氷河期にユーラシア大陸から陸伝いに北海道のオホーツク沿岸にやって来ていた人々が、最終氷期が終わって気温が上昇し、温暖化した頃から作り始めたものであり、その人達の作った文化が縄文文化でしょう。そして、それがこの「北の縄文遺跡群」の世界史上の位置付けであり、人類史上の意義であると私は思います。
「世界四大文明」と言われるものが興ったのは紀元前5000~3000年頃のようで、紀元前8000~6000頃に北海道に興った縄文文化より後になるようですから、日本の縄文文化は「世界四大文明」に先駆けていたようです(^o^)。
↓の記事によれば、鳥浜貝塚で出土した土器片は14000~5000年前のものだそうですから、日本の縄文文化や土器製作は紀元前12000年より遡るのかもしれませんね。
この世界史上の位置付けと人類史上・文化史上の意義を付けてユネスコに申請すれば、「北の縄文遺跡群」(日本の縄文文化)はすぐにでも「世界文化遺産」として登録され、「世界四大文明」も「世界五大文明」に改められるのではないでしょうか\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。
『古事記伝』や「国家神道」や「皇国史観」に洗脳されていて、ここに書いてきたことを「酷いでたらめ」としか受け止められないような、旧来の歴史観や歴史認識に凝り固まった人の方が多いうちは、縄文時代を世界史上に位置付けるのは無理なのかもしれませんね~<(_ _)>。「神代」や、信仰や信心にまでなってしまっている八百万のカミサマ達を「作り話だ」と否定することになるのですから。
けれど、日本の縄文遺跡や縄文文化がこれまで正当に評価されてこなかったのは、「天津族の天皇家以前の日本は神代であった」としてきたからだろうと私は思います。