2016.1.22 コメントへのお返事
先ず小野氏の正しい読みはオオノ(意富野)で、桓武天皇時代に小野の漢字が宛てられますが、読みはオオノで継承しました。多氏はオオ(意富)です。大野は、元に戻した苗字だった訳です。
妹子の由来
欽明と葛木垂見の娘広の子である敏達は、小野大樹姉妹で美しい小島子を妃にした。小島子と大樹は近親相姦をして居り妊娠し出産し発覚。敏達は怒り、自分の子とは認めず…大樹は殺害されそうになるが、聞き付けた后の稚綾媛【石媛。継(継体。暗殺)の子、宣(父親暗殺後、軟禁状態)の娘】に咎めら嘆願されて、大樹を恩赦し子も還す
小野妹子(毛人)の兄弟、文人(大野果安)です。文人の子には東人(広人)造平城京司次官です。
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als*****さまから上記のようなコメントを戴きました。私は全く知らなかったのですが、そういうオハナシも創られていたのですか。コメントの内容を私はよく理解できないのですが<(_ _)>、敏達は欽明の子で、妹子は敏達の妃の小島子と小野大樹との間の子であり、小島子と大樹は実の兄妹だということのようですね。
コメントは2010.9.28の記事に対するもので、その時の私は小野神社で初めて小野氏の系図を見てそれを信じたのですが(^_^.)、
小野神社
その後、2015年までに「敏達天皇」とされている訳語田渟中倉太珠敷尊(オサダノヌナクラフトタマシキノミコト)は、欽明天皇の子ではなく継体天皇の外曾孫で、天皇になってもいないことが分かりましたから、このオハナシの出典が何かは分かりませんが、その内容や系譜は事実ではないと思います。
それにしても、木梨軽皇子と軽大娘皇女(衣通姫)の兄妹の近親相姦だとか、中大兄皇子と同母妹の間人皇女(孝徳天皇妃)の近親相姦だとか、敏達妃の小島子と大樹の近親相姦だとか、この頃のオハナシを創った人達って本当にこのテのオハナシが好きですね~<(_ _)>。
オハナシを創ったのは読み書きのできる人達だったのですから、王族や貴族階級の人達なのでしょうけれど、「事実は小説より奇なり」と言いますが(^_-)、実際にそんなことばかりしていたのでしょうか(^_^.)?
ところで、小野氏が意富氏の出身だというのはそうかもしれません。この時代は万葉仮名に見るように「音」にさまざまな字を当てていたようで、オオ氏も意富・多・大・太などいろいろな文字を当てられていますから、文字は根拠にはならないのですが、この時代にカミサマを祖とする複雑な系図が創られた目的は、その一族が王族や貴族の、言い換えれば支配階級の出自であることを証明するためだったのです。
小野神社の系図には妹子は敏達天皇の孫と記されていたのですが、敏達天皇が架空の天皇だったということになると妹子は天皇の孫ではなかったことになりますから、それではどういう王族だったのだろう?と疑問に思っていました。
出自が全てだったあの時代に、朝廷の中枢にいて国を代表する遣隋使となり中国に行ったということは、妹子はそれだけの身分や権限や見識を持ち、中国語も自在に使うことができたということでしょう(^o^)。そして帰国後は冠位十二階における第1位の大徳の位にまで上り詰めたのですから、その妹子が被支配者階層の一般庶民だったはずはありませんものね(^_-)。
意富氏の祖は崇神天皇の伯父で北陸将軍だった意富毗古命だということがオオ氏の考察から分かったのですが、訳語田渟中倉太珠敷尊は継体天皇の外曾孫で、継体天皇は崇神天皇の子孫ですから、妹子が訳語田渟中倉太珠敷尊の孫であるならば、訳語田渟中倉太珠敷尊が(敏達)天皇になっていなくても、意富毗古命の子孫で王族の出自であるということに矛盾はないようです(^o^)。
妹子の系譜についていろいろな名前をお書きくださいましたが、↓の資料には出てこない名前ばかりでしたので、それらの人々に関しては、私は全く分かりませんが、小野毛人のお墓は京都市左京区上高野にあって墓誌も出土していますし、妹子と毛人では世代も違いますから、妹子=毛人ではないと思います。