王族の名前はみな「○○命」と記されている中で、一人だけ他とは全く違う「ウジノワキノイラツコ(菟道稚郎子)」という名前には違和感があったのですが、これは宮が宇治にあったと伝わっていることから菟道は地名、稚は「若」で、「宇治にいた応神天皇の息子」という呼び名(通称?)であって本名ではないようです。
馬子と蝦夷については、大王に謁見した裴世清が「大王の名はタリシヒコ、太子はワカミタフリ」と煬帝に報告しているので、それが本名かもしれないと思うのですが、欽明・ウジノワキノイラツコ・用明(蘇我稲目)・蘇我入鹿については本名は分かりませんでした<(_ _)>。そもそも本名は諱(忌み名)であって口にするものではなかったようですし。
南山城の継体天皇の筒城宮とはどんな所なのだろう?そこには本当に宮や都か作られていたのだろうか?と疑問に思って2012年に行ってみたのですが、そこは宮や都があった場所とは思えませんでした。遺構なども出ていないようですし。
筒城宮址
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世界最大のお墓が造られたほどに強大な力を持っていた応神天皇が亡くなった後、崇神系王族と応神系王族の王位争いが激しくなっていたようですから、太子のウジノワキノイラツコは、4世紀末からの崇神系王族の本拠地であって、崇神系王族やその軍である西漢氏(かわちのあやうじ)のいた河内ではなく、応神天皇の離宮があった宇治で即位し、南山城が王位争いの戦いの場になっていたのかもしれません。継体天皇の宮があちこちに移動していたというのは、遷都ではなく行宮だったのではないでしょうか。
「507年に即位した継体天皇は526年にやっと大和へ入った」という記述は、この526年にウジノワキノイラツコが殺されて継体天皇が大王に即位したということではないかと思います。継体天皇の「磐余玉穂宮」は未だにどこにあったのか分からないようですし、継体天皇のお墓は大和ではなく摂津にあるのですし、531年に政変を起こした欽明天皇は大和で即位しているのですから、継体天皇は526年に大和に入ってはいなかったと思います。
3つの石棺が埋納されていた高槻市の継体天皇の墓・今城塚古墳
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応神天皇は、王位に就いた頃には崇神系王族の男大迹王(をほどのおおきみ・後の継体天皇)に次の王位を約束していたようですが、死去する1年前になって、我が子のウジノワキノイラツコを次の王に指名し、男大迹王にはその補佐をするように命じたようですから、「ウジノワキノイラツコが兄と王位の譲り合いをし、兄に譲るために自ら命を絶った」というオハナシは、男大迹王がウジノワキノイラツコを殺して王位に就いたことを正当化するために創られたオハナシであろうと思います。
そして5年後の531年にはウジノワキノイラツコの息子のワカタケルが「辛亥の変」を起こして父の敵を討ち、王位を取り戻して磯城で即位したのですね。さきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文に記されていた「辛亥の年」「ワカタケル大王」「シキの宮」はこのことを記しているのです。学者さんたちはワカタケルは雄略天皇で、辛亥年は471年だとしているようですが。
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代々杖刀人の長を務めてきたオオヒコノミコトの7世孫のヲワケ臣は、この政変の時ワカタケル側に付いていたようですね。