2018.12.26 武蔵野台地と湧水18 開拓領主
井口家は、中世には杉並区北部一帯の領主だったようですが、個人でそんな広い範囲を開拓することなどとてもできませんし、もし開拓できたとしても、当時の厳然とした身分制度の下で庶民が領主になどなれたはずはありませんから、「草分け長左衛門」は王族・貴族といった支配者階級の出身で、領民を動員して開拓したのだろうと思います。
そこに、王族が増えすぎたために(例えば嵯峨天皇には子供が50人もいたそうです)臣籍降下させられ、王族から外されて「源氏」や「平氏」となった人たちが官吏となって下向してきたのですが、上総介になって上総国に赴任した平良望(国香)や、常陸大掾となって常陸国に赴任した源護らは、任期が終わっても京には戻らずに土着して開拓領主になっていました。下総から常陸にかけての地を領地として「新皇」を名乗ったという平将門は、この上総の開拓領主・平良望(国香)の孫なのです。
将門の石井営所があった辺りは、豊かな穀倉地帯でした。
臣籍降下して関東に赴任してきた源氏や平氏の一族は、この頃はまだ誰のものでもなかった湿地帯を開拓して領地をどんどん広げ、財力を蓄えて朝廷と戦えるほどの力を持つ開拓領主となっていたのです。上総国や常陸国は親王任国でしたから、遙任の親王に代わって赴任してきたのが桓武天皇の孫の平良望や嵯峨天皇の孫(?)の源護らだったのでしょう。
武蔵は親王任国ではありませんがランクでは「大国」ですから、実入りの良い大国の武蔵国に赴任してきたのも、やはり元王族の源氏か平氏だったのではないでしょうか。
律令制では、赴任先で取り立てたものの中から定められた分だけを国府に納めれば、国司(親王任国では介や大掾)は残り全てを自分のものにできたようですが、新しく開拓した土地や、そこから得られるものは定められた分には含まれていないわけですから、それらは全て開拓領主のものになっていたのです。その財を使って人を雇い、次々と開拓を進めて領地を広げていったのでしょうね。
司馬遼太郎著『街道をゆく・韓のくに紀行』には「日本の奈良朝、平安朝といった中国もしくは朝鮮風の律令制度であった頃は、体制そのものが汚職であった」と記されていましたが(^o^)。
↑の「本田善光」とは、飛鳥・河内・信濃・諏訪・飯田に善光寺を造った応神天皇(余昆・誉田天皇)の子孫の余善光のことなのです。この本田は誉田でしょう。
こうして開拓領主として富や力を蓄えた源氏や平氏が武士の頭領となり、やがて公家から権力を奪って武士の世になっていったのですが、井草を拓いて領主となった井口長左衛門も、そのような開拓領主の一人だったのではないでしょうか。
ひょっとすると「井口家所蔵文書」には系図なども含まれていて、「草分け長左衛門」の出自などが記されているのかもしれませんね。