2018.12.6 青銅器時代・鉄器時代4
「古代の地形から『記紀』の謎を解く」にも書きましたが、日本書紀の一書(あるふみ)第4には「天から追放されたスサノオは新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降り、そこから息子の五十猛(いそたける)神と共に船で東に渡り出雲へやって来てヤマタノオロチを退治した。そして息子の五十猛神は日本中に木を植え、今は紀伊に祀られている」と記されているそうですし、大韓民国江原道の春川(チュンチョン)の牛頭山の辺りには「スサノオが50人の兵士と妹を連れて出雲に渡った」という伝承が残っているそうです。
『日本書記』は、朝鮮半島に行ったこともなく、文字も持たなかった日本の先住民の縄文人が書いたものではなく、朝鮮半島から渡来してきた弥生人の天津族が書いたものなのですから、書いた人たちは当然曽尸茂梨(そしもり)や牛頭山といった地名や、それがどこにあるのかということや、スサノオがそこから来たということを知っていたのです。牛頭山からやってきたスサノオは天王社や八坂神社では「牛頭天王」として祀られていますしね。
wikipediaによれば「牛頭天王は道教的色彩の強い神だが、中国の文献には見られない」そうです。スサノオは中国とはなんの関係もないのですから当然ですよね(^o^)。すべてのことにはちゃんと論理的な因果関係があるのです。
スサノオがアマテラスの弟で天から出雲にやって来たというのは『古事記』の作り話で、日本神話は7~8世紀に天津族が作ったオハナシなのです。新羅の建国は356年で、スサノオが天から追放された神代に新羅があったはずはありませから、その一書(あるふみ)第4が書かれたのも、新羅が建国された後だということなのでしょうね(^o^)。
今年6月に「金印・志賀島・阿曇族」の項で、大海人皇子の祖父の宗像氏は呉越戦争に破れて渡来してきた呉の王族なのではないかと推理したのですが、その後、宗像市には「宗像氏は呉人である」と伝わっていることが分かりました。
そして昨日、越王・句践の剣について調べていたら、中国では「呉越戦争で越王勾践に敗れた呉王夫差はBC473年に自決し、王族や呉人の一部は九州北部に逃亡した」と伝わっていることも分かりました\(^o^)/。やはり海人族の宗像氏は呉の王族で、安曇族や住吉族はその時一緒に渡来した王族以外の呉人であり、「大海人皇子」は「海人族の宗像氏の血を引く皇子」という意味だったようです。
そうであれば、やはり前もって船に宝物を積み、用意周到に王族の脱出の手はずを整えておいたのは孫武か、もしその頃に孫武がすでに亡くなっていたのであれば、孫武の子孫や弟子たちだったのではないでしょうか(^o^)。
「古代の地形から『記紀』の謎を解く」を書く前に徐福の伝承を知って、吉野ヶ里は徐福のクニだったのではないかと推理して徐福について調べた時には、中国には徐福の出身地である徐福村があって、そこには「徐福は日本に行って王になり帰ってこなかった」と伝えられていることが分かりました。
作り話ではない実際の歴史には、いろいろな所に記録や伝承や物証などの手がかりが残っていますから、その因果関係を論理的に丹念に辿っていけば「歴史の謎」は解けるのです。ホームズも「ただ一滴の水から、論理学者は大西洋やナイアガラ瀑布を見たことがなくても、それらが存在しうることを推論できるであろう。同様に、人生もまた大きな一連の鎖であり、われわれはその環の一つを示されると、全体の本性をも知ることができるのである」と言っていましたしね(^o^)。
ネコビタイ便り
せっかく復活して花を咲かせ始めた皇帝ダリアだったのですが、昨日風で折れてまた情けない姿になってしまいました(T_T)。凍る前に花を咲かせようと焦って成長を急いだため茎が軟弱になって、たくさんのつぼみや花を支えられなかったようですが、折れながらもけなげに頑張って一輪の花を開こうとしています。