私は青銅器の出土に関してはあまりよく知らないのですが、西日本に比べて東日本での出土は少ないようですね。
358本の銅剣や銅鐸、銅矛が埋納されていた荒神谷遺跡
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けれどそれは、論理的に考えれば当然で、文化や技術は人が伝えるもので人の移動と共に広がっていくわけですが、青銅器制作や製鉄技術を持った中国や朝鮮半島からの渡来人は、北九州や日本海側から入ってきていたのですから、その技術や文化を持った人たちが東日本にやってくるまで時間差があったということでしょう(^o^)。
弥生式土器は、たまたま発見された文京区弥生町の名前を付けられているため、東日本から始まったのかと思っていましたが、これもやはり渡来人の持ち込んだ技術で九州から東へと広がって来たものであり、東に行くほど弥生式土器の始まりは遅かったようです。
2016.4.15 弥生土器と青銅器と鉄器
それらの人の移動や文化の波及の時期は、歴史学者さんたちが得意とする「非科学的で非論理的なつじつま合わせの説」ではなく、ATL(成人T細胞白血病)ウィルスとB型肝炎ウィルスの分布状況から科学的に証明できるのです\(^o^)/。
秦の時代に渡来してきて佐賀県の吉野ヶ里に拠点を置いた秦氏に対して、福岡県の宗像に拠点を置いていた海人(安曇)族の宗像氏はそれ以前の呉越春秋時代に渡来してきていたようですから、時期的にみて鉄剣を作れたかどうかは微妙ですね。けれど海人族は活発に交易をしていたようですから、いち早く鉄剣や鋼鉄の剣を入手することはできたのではないでしょうか。
吉野ヶ里から鋼鉄が出土しているかどうか私は知らないのですが、秦の時代頃には中国では鋼鉄が作られていたようですから、徐福の一行には鋼鉄の技術を持つ人がいたかもしれません。
軟らかい銅剣や脆い鍛鉄や銑鉄の剣とは比較にならない強度を持つ鋼鉄は当時の最新・最強の兵器であり、今でいえば核兵器のようなもので、持っていれば持たない国に対して圧倒的に有利だったのですから、その技術は門外不出で国の最高機密だったようです。
もうすっかり忘れてしまったのですが<(_ _)>、確か高句麗の初代王になった朱蒙(在位BC37~BC19)も鋼鉄の剣を作ろうと苦労していましたよね?それに成功したので高句麗は大きな力を持つことができたのでしょう。