複合遺跡から青銅器や鉄器の出土例はあるのでしょうか。(静岡以西の青銅器の出土分布図は見たことがあります。)大陸や朝鮮半島が青銅器文明の時代にも日本列島に渡来人は来ていますよね。(青銅器と鉄器が同時に齎されたとする説が有力?)
2018/12/1(土) 午後 9:40 [ kojita ]
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「複合遺跡から青銅器や鉄器の出土例があるのかどうか、私は知らないのですが<(_ _)>、関東の古墳からも銅鏡や巴形銅器などが出土していますから、青銅器の文化はあったと思います。
西日本から多く出土している銅鐸・銅剣・銅矛にしても、全てが輸入品だったとは思えませんし、2800年前頃から中国や朝鮮半島から渡来し始めた弥生人は、当然青銅器時代を経てきた人たちなのですし。
ここで言っている複合遺跡とは、住居跡の大きさや数からみて権力者や支配者層の宮跡ではなく、旧石器時代から庶民がずっと住み続けていた住居の跡のようですが、銅鏡にしても銅剣や鉄剣にしても、王などごく一部の支配者層だけが持つことができた特別なものであって、小さな竪穴式旧居に住んでいた庶民が持てるようなものではなかったと思いますから、青銅器や鉄器はこれらの複合遺跡からは出土していないかもしれません。」の続きです。
巴形銅器は、吉野ヶ里で作られていたようですし、吉野ヶ里には古墳時代より前の紀元前から版築で作られた墓があること、その辺りには徐福の伝承や徐福を祀る神社や徐福の足跡を示す遺跡などがあること、吉野ヶ里からは大量の鉄や銅製品が出土していることなどから、私は「秦氏」とは秦の始皇帝から蓬莱山を探しに送り出された徐福と技術者集団のことで、吉野ヶ里は渡来人である「秦の民」の徐福の一行の作っていた集落(クニ)であろうと考えています。
江蘇省連雲港市贛楡県金山鎮にある徐阜という村は、以前は「徐福村」と呼ばれていて、「徐福は日本に行って王になり帰ってこなかった」と伝えられているそうですし、徐福にまつわる遺跡もあるそうですし(^o^)。
中国の製鉄は戦国時代(B.C.476~221年)には始まっていたようですから、徐福の一行の中には製鉄技術者もいたかもしれません。そうであれば、青銅と鉄は同時に入ってきたことになりますね。
紀元後に渡来してきたスサノオは、鍛鉄や銑鉄よりも格段に強度のある鋼鉄を作る技術を持った製鉄民を率いてきたようです。それまでの軟らかい銅剣や脆い銑鉄の剣とは全く強度の違う鋼鉄の武器や農具を持っていたためスサノオの子孫たちは短期間に九州から新潟・福島までの小国の王たちを傘下に置く「大国主」になることができたのだろうと思います。
けれど、歴代の大国主は、傘下の王たちに大量の銅鏡を配っていますから、青銅器時代が終わって「何でも鉄」の時代になったわけではなく、青銅から鉄に変わったのはまず武器で、次が農具でしょう。銅と鉄は用途によって使い分けられていたはずです。
九州から新潟・福島まで全国の古墳からすでに500面以上も出土している「三角縁神獣鏡」は、歴史学者さんたちが言うような「卑弥呼が魏から下賜された100面の鏡」ではなく、歴代の大国主が国内で作らせて傘下の王たちに配ったものであり、大国主のお膝元の椿井大塚古墳からは32面、黒塚古墳からは33面の三角縁神獣鏡が出土しています。
ネコビタイ便り
今日皇帝ダリアが3輪咲きました。霜が降りる前に間に合ったようです\(^o^)/