2018.11.30 杉並区の遺跡4
食料や塩は自分たちで手に入れなければ、買うとか取り寄せるなどという選択肢はなかったのですし、そこまでやって来るのにも他所へ行くのにも、自分たちが作らなければ道などなかったのですから。
↓の川とその周辺の低湿地(沖積低地)は、旧石器時代~縄文時代には海だった所ですから、その周辺の台地の縁は舟の交通に便利で、魚介類などの食料や塩の調達がしやすい場所であり、関東のこのような地形の所からは東京でも埼玉でも群馬でも栃木でも茨城でもたくさんの貝塚が見つかっています。
また、杉並区では標高50m前後のハケからは豊富な湧水があって、あちこちに大きな池を作っていたようです。暮らしに必要なものが揃っている所だったから、この辺りには3万年以上前からずっと人が住み続けていたのでしょう。
そして、噴火や地震などの自然災害で住めなくなったり、(侵略や地上げなどで)力ずくで奪い取られたりしない限り、ヒトは住み慣れた便利で暮らしやすいところから別の場所に移動したりはしなかったでしょうから、旧石器時代にここに住み着いた人たちの子孫は古くなった家を作り替えたり、近くに新しい家を作ったりしながら縄文時代にもずっとここに住んでいたようです(^o^)。
↓は弥生時代と古墳時代の遺跡ですが、その後渡来してきた弥生人たちは、自分たちで新たに未開の土地を拓いたりはせず、縄文人が暮らしていた居住に適した良い場所から先住の縄文人たちを追い払って奪っていき、今度はその弥生人の子孫たちが弥生時代以降そこに住んだため、同じような所に各時代の遺跡が重なって複合遺跡になっているのだろうと思います。
弥生時代の遺跡
古墳時代の遺跡
縄文時代には海だった川の周辺の低湿地は、昭和の中頃まで水田だったのですから、武蔵野台地の下の平地には古い時代の遺跡はないだろうと思います。
古墳時代以降は海退が進んで、台地の下の海だった所は徐々に湿地になり水田地帯になっていったのですが、家康が入府した江戸時代の初めには、日比谷の辺りはまだ「日比谷入江」と呼ばれる海だったのですよね。
ネコビタイ便り
台風で痛めつけられて1本だけ残っていた皇帝ダリアは、その後脇芽を伸ばし、なんと5本の脇芽が蕾を付けました。明日からもう12月なのに蕾はまだ小さくて固いのですが、このところ暖かい日が続いていますから、ひょっとすると凍っしまう前にいくつかは咲くかもしれません。
ダイヤモンドリリーはまだきれいに咲いていて、バラもポチポチと咲き、ツキヌキニンドウ・ニオイバンマツリ・ヒメノウゼンカズラが季節外れの狂い咲きをしています。