2018.9.1 学者さんたちの常識12 ワカタケルも雄略天皇
9.3から日経新聞の朝刊で池澤夏樹氏の「ワカタケル」の連載が始まるそうです。『記紀』をベースにした小説で、主人公はワカタケル、すなわち第21代天皇「雄略」で、「激しい権力闘争と女たちとの仲、神々や怪物との行き来などを通じ、日本という国が形成される過程を描く」のだそうです。
本当は、ワカタケルは雄略天皇ではなく、雄略天皇は架空の人物で第21代天皇でもないのですが(^o^)。
池澤夏樹氏は以前、『古事記』はまるで小説のようだと書いておられましたが、そもそも『記紀』のこの辺りの記述は作り話なのですから、さしづめこの小説は古代の小説のリメイクということになるのでしょうか。
(↑ではアメノタリシヒコを欽明天皇の子としていますが、その後の検証で、アメノタリシヒコは用明天皇の子で、欽明天皇の孫であることが分かりました。)
『記紀』に題材を取った架空の人物の架空の物語ですから、史実からは程遠いけれど、元の『記紀』のオハナシよりもずっと面白いものになるのでしょうね(^_-)。
学者さんたちは「倭王・武」は雄略天皇であるとしていて、稲荷山古墳や江田船山古墳から出土した鉄剣の銘文にある「ワカタケル王」も雄略天皇だとしているのですから、倭王・武は雄略天皇であって、ワカタケル王でもあるということなのでしょうね?するとワカタケル王の父は允恭天皇で、兄は安康天皇、子は清寧天皇だということでしょうか???
そしてそのお墓は、宮内庁や学者さんたちが雄略天皇陵だとしている直径76mの小ぶりな円墳である羽曳野市の島泉丸山古墳だということになるのでしょうね?
でも実際は、倭王・武は応神天皇(462年に百済から渡来した余昆)で、その陵墓は日本最大の前方後円墳であり世界最大の墓でもある墳丘長525mの大山古墳であり、ワカタケル王は531年の辛亥年に「クーデター・辛亥の変」によって王位に就いた応神天皇の孫の欽明天皇で、その子は用明天皇であり、ワカタケル王の陵墓は奈良県最大の前方後円墳である墳丘長310mの橿原市見瀬町・五条野町・大軽町にまたがる見瀬丸山古墳なのです(^o^)。
「神々や怪物との行き来」というのは、葛城の一言主の神とのことでしょうか。このカミサマは天皇の真似をして雄略天皇と競ったため、天皇の怒りを買って土佐へ流されてしまったのだそうですから、『記紀』ではカミサマよりも天皇の方がずっとエラいのですよね(^o^)。
この雄略天皇に流されてしまったカミサマは「土佐一之宮・土佐神社(明治4年までの名称は「土佐高賀茂神社」)」に祀られていたのですが、300年後に本拠地の葛城に帰って来たそうです(^o^)。
また、倭王・武は、葛城や吉備を支配していた有力豪族を滅ぼしたのだそうですが、雄略天皇の時代に葛城の一言主の神(=鴨氏=事代主の子孫)を土佐に流したのは、応神天皇ではないようです。
というように、論理的に考えて検証してみると、「学者さんたちの常識」とは全く違って、倭王・武もワカタケルも雄略天皇ではないことが分かりますし、倭王・武は倭王・讃(崇神天皇)から始まった倭王(讃―珍―済―興―武)の5代目の倭王であって21代目の天皇でもないのですが、8世紀に作られた『記紀』がその時代の天皇は21代目の雄略天皇だと記しているので、学者さんたちはそれを信じてつじつまを合わせるための「説」を山のように作り、小説家はそれらを元にして文芸の香り高い「歴史小説」を作り、その出来が良くてベストセラーになれば、その小説はやがて映画やドラマや演劇になって、それが歴史として一般人に刷り込まれていくのでしょう。
「悪逆非道なリチャード3世像」はそのようにして歴史家たちによって作られ、それを作ったトーマス・モアはサーの称号を与えられて、それが歴史の事実として教科書に載せられ、それを元にしてシェークスピアが書き上げた「リチャード3世」は世界中で読まれて上演され、「悪逆非道なリチャード3世像」は史実として一般人に刷り込まれていったようですが、ひょっとすると、私たちはこれから「ワカタケル像」が作られ、その像と「ワカタケルは雄略天皇である」ということが史実として一般人に定着していく過程をリアルタイムで体験することになるのかもしれません(^o^)。
やはり架空の人物である「ヤマトタケル」は、そのような過程を経て、すでに歌舞伎などで繰り返し上演されているようです(^o^)。
そういえば『古事記』の作り話では、架空の人物に同じ名前や似たような名前がよく使い回されているようなのですが、このワカタケルやイソタケル(五十猛命)の「タケル」もヤマトタケル・クマソタケル・イズモタケル、果ては『常陸国風土記』の倭武天皇(ヤマトタケルノスメラミコト)まで様々な架空の人物に幅広く使い回されているようです(^_-)。