播磨坂の坂下のお店の前の土嚢を見て、台地の上に降った雨は、坂下に溜まってしまうため、土嚢が備えられているのではないかと考えたのですが、その後、「台地上に降った豪雨が一気にマンホールに流れ込んだため、台地下の低地に広がる神田の商店街ではマンホールの蓋が水圧で吹き飛んで下水が噴水のように吹き上げた」というニュースがありました<(_ _)>。やはりコンクリートのビルやアスファルトで覆い尽くされた台地の上に降った雨は、一気に台地の下の江戸時代まで海だった低地へと流れ、低地を水浸しにしていたようです。
ゲリラ豪雨とか都市型洪水とかといった言葉が使われ始めたのはこの頃からだったかもしれません。
でも、河川改修などによって川が氾濫して水浸しになることは減ってきていたようですが、これらの中世頃まで海だった低地の歴史を見ると、神田川(江戸川)にしても小石川にしても、その他の川にしても、大雨が降るたびに洪水に悩まされていたことが記されているのですよね。それも遠い昔の話ではなく、昭和の初めまで早稲田の辺りでは洪水に備えて舟を常備していたようです。洪水でない時には水車が回りホタルが飛び交うのどかで風光明媚な所だったようなのですが。
台地の端(はな)に屋敷を構えていた大名は、洪水の被害に合うことなくその風光明媚な景色を楽しむことができたのですね。
江戸川べりには関口芭蕉庵がありますが、芭蕉もこの江戸川改修に従事していたようです。
ずっと前に「芭蕉は早稲田田んぼを琵琶湖に見立ててその風景を愛した」という文を見た時には、田んぼを湖に見立てたということに違和感を持ったのですが、↓の図を見ると当時の江戸川は今よりずっと幅が広かったようですし、大雨が降って洪水になると本当に琵琶湖のようになっていたのかもしれません。
↑の絵は牛天神から江戸川の方向を描いたもので、中央の水が江戸川のようですが、確かに川というより湖のように見えますよね。
ところで、神代にカミサマが作ったのではなく、「太平洋にあった火山島がプレートに乗ってやってきて、約60万年前に本州に衝突してできた伊豆半島」が日本で9ヶ所目の「世界ジオパーク」に認定されたようです\(^o^)/。
くっついたのが1000 万~500 万年前だったのか60万年前だったのかではずいぶん大きな違いがありますけれど、いずれにしても伊豆半島は、カミサマの力を借りることなくできたようです(^_-)。