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「塙」って?53 武蔵野台地の端(はな)42 豪徳寺

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2017.7.21 「塙」って?53 武蔵野台地の端(はな)42 豪徳寺

 

吉良氏の居城のあった豪徳寺は世田谷八幡のすぐ先にありました。ところが!以前行ったことがあるはずなのに、着いてみたら全く見覚えがなかったのです<(_ _)>。井伊直弼のお墓もおぼろげな記憶とは全く違っていましたし<(_ _)>。私が違うお寺と混同してしまったのか、行ったという記憶が自体が間違っているのか・・・・・???

 

混乱したものの気を取り直して、初めての場所として見学することにしました(^o^)。墓所にはいろいろな年齢層の人が入れ替わり立ち代わり見学に来ていましたが、これは大河ドラマの影響でしょうか(^o^)

 

実はこの日、私は自分が行ったと思っていた豪徳寺と実際の豪徳寺が全く違っていたことに呆然としてしまい、記憶にある(と思っていた)お墓を探そうと墓石が見えた左の方に行ってしまったのですが、そちらは井伊家墓所の正面入り口ではなかったため、案内も説明もなく<(_ _)>、墓石は俗名ではなく院殿号で記されていましたし、たくさんあった(300余基もあるそうです)ので、どれがそうなのかすぐには分かりませんでしたが、


イメージ 1

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「櫻田殉難八士の碑」があって、裏に「万延元年三月三日」と彫られていたので、その前にある↓の墓石が直弼のものであることが分かりました。


イメージ 4

 

櫻田殉難八士の碑


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というわけで、裏から入ってしまい正面から出てきたのですが<(_ _)>、正面から入ればちゃんと説明も案内図もあったのです(^o^)


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直弼の墓石の近くに「徳應謙道首座塔」というものがあったので、これは一体なんだろう?なぜ井伊家の墓所のこの場所にこういうものが建っているだろう?首座というのは直弼の首と何か関係があるのだろうか?と思ったのですが、これにも何の説明もなかったのでなんなのかは分かりませんでした<(_ _)>

 

徳應謙道首座塔


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自分の記憶も含めて、いろいろと疑問が残ったので<(_ _)>、帰って来てから改めて調べてみると、通説では、「直弼が安政7年(186033日に桜田門外で水戸藩士らに暗殺された後、その首を預けられていた遠藤家から井伊家家来が取り返しに行き、江戸藩邸で胴体と縫い合わせられ、喪が秘された後の4月10日に豪徳寺に葬られた」とされているのだそうですが、この墓石の下3m以内には石室はないそうで、直弼の遺体はこの墓には埋葬されていないようなのです。「豪徳寺のほかの場所に埋葬されているのかもしれない」ということなのですが・・・・・

 

彦根まで運ばれて埋葬された可能性がないのであれば、直弼の遺体は井伊家の墓所であり、歴代の藩主が埋葬されている豪徳寺に埋葬されているはずですが、それではいったいどこに埋葬されているのでしょうね?

 
 

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