欽明天皇以前の天津族の王族の宮は大阪にあったようで、墓(古墳)は大阪の古市・百舌鳥古墳群にあるのですが、応神天皇の太子だったウジノワキノイラツコ(菟道稚郎子)だけはなぜか例外で、宮は宇治にあったようでお墓は宇治にあるとされています。
現在宮内庁がウジノワキノイラツコの陵墓として治定しているものは古墳ではなく、「浮舟の杜」と呼ばれていた丘を前方後円墳の形に成型したものだそうですが、
『日本書紀』には菟道山上に葬られたと記されているそうですし、宇治にはウジノワキノイラツコを祀る「宇治上神社」と「宇治神社」もあります。
宇治神社
宇治上神社
「宇治上神社」と「宇治神社」は明治維新までは一体の「宇治離宮明神」でここには応神天皇の離宮があり、ウジノワキノイラツコの宮になっていたと伝わっているそうです。ところが、507年に楠葉で即位したという継体天皇も、511年に南山城の筒城宮に遷都したとされているのですよね。
けれども、継体天皇の墓は南山城ではなく大阪府高槻市にあるのですから、宮は南山城ではなく高槻市の今城塚古墳の近くにあったはずだと私は思います。それに継体天皇は何度も遷都したとされていますが、遷都などそんなに簡単に何度でもできるものではありませんよね。天皇だけが引っ越すわけではないのですから。この辺りの『記紀』の記述は「ウソばっか」なのです。
『記紀』は前天皇の25代武烈天皇が子を残さずに死んでしまったため、応神天皇の5世孫の男大迹王を越前から迎えたとしていますが、464~506年に在位していたのは大山古墳の被葬者である応神天皇で、17代仁徳から25代武烈までの10人の天皇は架空の人物です。
応神天皇が270~310年に在位した天皇だというのもウソで、両親の仲哀天皇と神功皇后も架空の人物であり、戦後、神功皇后が削除されるまでは神功皇后が15代天皇で、応神天皇は16代天皇ということになっていたのです。14代仲哀天皇が死んだあと、15代天皇として200~270年に在位したということにした神功皇后が削除された後、16代としていた応神天皇を15代に繰り上げたようですが、その結果14代仲哀天皇が200年に死んだあと、270年に15代応神天皇が即位するまでの70年間は日本には天皇がいなかったことになってしまっているのです。
そしてその応神天皇の太子だったのがウジノワキノイラツコで、応神天皇はこの太子のために教師としてわざわざ百済から王族の和邇吉師(王仁博士)を招聘し、和邇吉師は6世紀初めに作られたばかりの『千字文』を携えて来日したのです。『記紀』はそのウジノワキノイラツコが架空の仁徳天皇に位を譲るために自ら命を絶ったというオハナシを作っていますが、4世紀にはまだ『千字文』はなかったのですからそれは真っ赤なウソなのです。
継体天皇が応神天皇の5世孫であるというのも越前から迎えたというのも全部ウソで、464~506年に在位した応神天皇と507年に即位したということになっている継体天皇は同時代の人です。
応神天皇の在位を200年も繰り上げたり、太子のウジノワキノイラツコは自殺してしまったことにしたり、継体天皇は応神天皇の5世孫で越前にいたことにしたりと、ウソだらけの『記紀』を作った人たちは、この間のことをよほど隠したかったようです。