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2019.5.17 コメントへのお返事 
 
金達寿(キムタルス19201997)の「日本の中の朝鮮文化(19701991/のち講談社文庫12巻)」のどれかを読んだ時に、明治政府は全国の新羅神社や高麗神社の扁額を取り下げるように指示したそうである。それでも全部が外された訳ではなくて、各処に残っていると上の本には書かれていた。多分、百済神社は日本の皇室が百済系であることからその必要がないのでしょう。即ち、八幡神を始めとしておそらく百済そのものであるのですからね。もう一つ記憶に残っているのは、明治政府が対馬の上下を入れ替えようとしたが断念しているそうである。今でも対馬の上の島は、北側の朝鮮半島側であり、下の島は日本寄りなのです。これが示しているのは、日本の支配者の祖国は朝鮮半島に在ったという証拠ではないかと。嶋恵さまが仰るようにあちこちに狐の尻尾が見え隠れしているのに子供のように言い張るのは、マッカーサーの“日本人12歳説を笑えませんね。 
2019/5/16() 午後 9:07 [ kojita ]
 
 
大阪には地名や神社名などに「百済」がたくさん残っていたので驚いたのですが、それは天津族が百済からの渡来人で、東征してきた4世紀末から531年に欽明天皇が大和に入って朝廷を開くまでの間大阪を本拠地にしていたからだろうと思います。
 
崇神天皇から応神天皇までの王族の墓(古墳)が奈良ではなく大阪の古市や百舌鳥にあるのも同じ理由でしょう。ヒトは生前に縁もゆかりもなかった遠隔地にお墓を造ったりはしないのですから。
 
奈良の広陵町東部の葛城川と曽我川に挟まれた地域には百済という集落があって百済寺の三重塔と小さな本堂があるそうですが、これは天津族が大和に入った後に作られたものでしょう。三重塔は鎌倉時代中期に造られたものだそうですし。
 
対馬の上の島と下の島については、その通りだろうと思います。大阪が「近つ飛鳥」で、奈良が「遠つ飛鳥」であるのも同じ理由でしょう。

古代の「総国」の現在の地図や交通手段では奈良・京都に近い方が「下総」で遠い方が「上総」となっていることから、当時の交通手段は船であったことに気が付いたのですが、海路では房総半島の南部の上総の方が東京湾の奥にあった北部の下総よりも都に近いのです。古代の毛野国が二つに分けられた時、南の群馬が「上つ毛野(上野・かみつけ)、北の栃木が「下つ毛野(下野・しもつけ)」となったのも同じですね。
 

私は金達寿氏の御著書も読んだことがないのですが<(_ _)>、そのお名前はどこかで聞いたことがあるような気がして探してみたら、能登でした。能登の渡来神(人)とお祭りのことを考えていた時、能登で購入した「お熊甲祭」の資料に記されていたのです(^o^)


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朝鮮半島に何の知識もなかった私は、韓国歴史ドラマを見るようになってからいろいろな場面で「あれ、同じなのでは?」と思うことがよくあって古代史の謎が解けて来たのですが、朝鮮の文化を実際にご存じの方であれば「これはよく似ている。同じなのでは?」と思うことはさぞかし多かっただろうと思います(^o^)

「似ていることには意味がある」のです。米国の日本近代史研究者ジョン・ダワー氏は「歴史家とはなにか?」との問いに「複雑さのなかにあるパターンを捜し出そうとすること」と答えたそうです(^o^)

 

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